特に目的があったわけではない。一つのところに留まる性質ではなかったので、旅を続けていただけだ。恨みを買うようなことは幾度となくしてきたつもりだったが、今現在置かれている状況は、あまりにも酷いものだった
 ヒールは一人でため息をつく。ここがどこなのかもわからない。空を見上げてみるが、そこにあるのはぴくりとも動かない青空があるだけだ。
「……何がなんだかわかんねー」
 少なくとも、まともな場所ではないことは確かだ。
 ついでに、ここに来る前までは一緒にいたはずの勇者の姿も見えない。安否を考える必要はまったくないが、この場所について何か知っているかもしれないので、適当に探してみることにした。
 地上は森のようだった。木々が生えている。ただし、生物の影は見えない。
 不気味な光景だった。風も吹かず、生き物の気配もない。対生物に関しては恐れを持たないヒールだが、実態の見えないものに関しては不安を覚える。恐怖という感情を久々に体感し、思わず口元が引きつる。
「あなた、誰」
 不意に聞こえた声に、ヒールは身を竦ませる。
「誰なの」
 気配のない声に振り返ると、そこには女がいた。
 美しく長い漆黒の髪を持った女だ。スタイルも悪くない。ただ、その目は狂気を秘めている。
「……ちょっと迷い込んじまってな」
 肩をすくめながらも、警戒は解かない。あのような目をしている者にまともな奴はいない。常人には理解できない行動にでることが多々ある。
「わかるわ」
 ポツリと零された言葉。口元は何故かにやついていた。
「あの人はとても美しいもの。
 青い髪も緑色の瞳も綺麗。同性だって見惚れてしまうものね。そんな人をあたしが独占してるなんて、とてもじゃないけれど許されないわ。それでもあたしはあの人が好きだし、あの人はあたしを愛してくれているの。だから、あなたがこうしてあたしからあの人を奪いにきたって無駄。ああ、でもせっかくここまできてくれたのに、無駄足を踏ませるのも悪いわよね。
 ちょっと嫉妬しちゃうけど、素敵な奥様になるためだもの。あたし我慢できるわ」
 小さな声で呟き続ける。
 女の言う『あの人』がどのような人物なのかはわからない。だが、ヒールはその人物を知らないということは間違いようのない真実だ。呟くことに夢中になっているようなので、今のうちに逃げようと後ずさる。
「さあ、こちらへどうぞ」
 笑顔で腕を掴まれる。
 痛いと感じた。女だとは思えないほどの握力だ。
「どこに連れていくつもりだ」
「あら。あの人のところに決まってるじゃない」
 瞳さえ抜きにすれば、女は美しい笑みを浮かべていた。白い肌に赤い唇がよく映えている。
「大丈夫。この世界はときが止まってるから。あの人は今も美しいままなの。でも早く行きましょう。あなたの他にもこの世界に誰かいるわ。もし、あたしがいない間にあの人と二人っきりになってたら、いくらあたしでも耐えられないわ。ね? 早く行きましょう」
 相変わらず、言っている言葉の意味はわからない。人の話も聞かず、自分の思いをひたすら吐露していくだけだ。
「……ん? オレの他にもって、勇者か?」
「あたし知らないわ。でも誰かいるわ。それはわかるの。あなた、その人が好きなの? それならあたし安心できるのだけれど。でもそんなはずないわよね。だって、あの人以上に素敵な人なんてこの世に存在しないんだから」
 女の言葉に、腕を振り払ってやろうと力を入れる。
「どうして振り払おうとするの?」
 真っ直ぐな瞳で射抜かれる。腕は掴まれたままだ。
 ヒールは力に自身があった。それなりに鍛えているし、筋肉隆々な男ならばともかく、目の前にいるような女の華奢な手から逃れられないほど弱くはない。だというのに、女の手はヒールの腕をしっかりと掴んでいる。
 この世界と一緒で、まともではないのだ。
「……冗談じゃねぇ」
 舌打ちをする。
 女から逃れられないのもそうだが、苛立っている一番の原因は先ほどの言葉だ。
「誰があんな奴、好きになるかよ」
 自分勝手で、飄々としていて、それでいてヒールをあっさりと屈服させるほどの実力を手にしている。
「オレはあいつが世界で一番大嫌いなんだよ」
 ヒールは腕を引き、女を引き寄せる。払う分には難しいようだが、引き寄せるのは案外簡単だった。
 飛びこむような態勢になった女の鳩尾に、容赦なく拳を叩きつける。
「っうあ……」
 痛みに女は手を離し、地面に転がる。
 その様子を見下ろしながら、ヒールは掴まれていた腕を軽く振る。
「悪いな。オレ、性別で差別しねぇんだわ」
 踵を返し、その場から駆け足で離れていく。
 地面に這い蹲った女が、鬼のような形相でその後姿を見ていたとは知りもしない。



 勇者はぼんやりと空を眺めていた。
 一向に流れる様子を見せない雲や、動く気配のない太陽は、ここが異空間だということを示していた。
「そこそこ広い空間みたいだな。人間が作ったもんじゃなさそうだ」
 魔法が使える者ならば、誰もが異空間を作り出せる。ただし、並みの魔法使い程度ならば、リス一匹が入る程度の空間しか作り出せない。見たところ、この世界には空があり、森があり、川もある。小さな世界とは言えないだろう。
 この世界に落ちたとき、ヒールとは離れ離れになってしまっている。魔物の気配もないので、心配はないだろうがじっとしていても見つからないだろう。勇者は重い腰を上げて歩き始めた。
 何の目的で作られたのかはわからないが、こうも生き物の気配がないと気味が悪い。いっそうのこと、内部からこの世界を壊してしまおうかとも思ったが、ヒールを見つけてからでないと後でうるさそうだと思い直す。
「おや、あなた様は……」
 聞こえた声に、視線をずらす。
「……誰だ」
 空中に男が浮かんでいた。
 青い髪に緑の瞳を持っている。見た目は人間のようだが、かすかに魔族の匂いがした。おそらく、この空間を作り上げた張本人なのだろう。
「私、あなた様に仕えておりました魔族でございます。
 まあ、下っ端もいいところだったので、あなた様はご存知ないでしょうが」
「そうか」
 勇者は不快感を隠すこともなく、眉間にしわを寄せる。
 昔の知りあいには会いたくない。今はいないが、ヒールと会われて昔のことを零されては困る。
「もしかして、お連れの方をお探しですか?」
「連れ……まあそうだな。
 丁度いい。お前が作った空間だろ。探せ」
 命令することに違和感はない。昔はこうして命令することも多かったのだから当然だ。男の方もそれを承知しているのか瞳を閉じて空間の中を探す。
「……おや、これは少し困ったことに」
「何だ」
 困ったことにと言いつつ、男の頬は緩い。
「私の恋人と一緒にいます」
「……そいつも魔族か?」
 ヒールが女といること自体はどうでもいい。気にかかるのは、相手が魔族かどうかということだけだ。
「いいえ。彼女は人間です」
「ならいい」
 人間ならば、ヒールがどうこうされることもないだろう。一緒に旅をしてきて、ヒールが女だからという理由で容赦をするような人間ではないということを知っていた。
「彼女は少々精神を病んでいるのです」
 男は悲しいはずのできごとを嬉しそうに話す。
「私のことを誰もが、そう、同性も、狙っていると思っているのです」
 確かに病んでいるのだろう。目の前にいる男は極一般的な顔だ。髪や瞳の色は人間と違い、美しいが、それは逆に人を畏怖させるだろう。
「ですから、私に近づく人を皆殺しにしてしまうのです」
 笑顔でこのようなことを言えるのは、魔族だからだろうか。それとも、この男もまた病んでいるのだろうか。
 昔に比べて、感情が豊かになったとはいえ、勇者には判別のつかないことだ。
「だからこの世界に閉じ込めたのか?」
「いいえ」
 男は胸に手を当てる。
「私は魔族です。寿命も長い。けれど、彼女は人の身。その時間の差が耐えられなかった。
 だから私は彼女をここに置いたのです」
「それだけか?」
 勇者はそれだけが真実だとは思わなかった。
「……私は、彼女が誰かに見られているなど、耐えられないのですよ」
 だから閉じ込めた。
 何だかんだと言い訳をつけているようだが、本心はこの一点だろう。
 病んだ女と男、お似合いだ。皮肉でも何でもなく、勇者は心の底から思った。
「あなた様も、お連れ様のことを大切に思っているでしょう?
 それと同じなのですよ」
「一緒にしてくれるな」
 勇者は笑う。
 見る者の背筋を凍らせるような笑みだ。
「オレはあいつのことが世界で一番大好きだ」
 男が身を下げる。行動の理由は恐怖だった。
「聖職につきながらも、戦うことを生きがいとしている。誰かに依存もできず、目的も作ることのできない。
 そんなあいつを、オレだけがわかってやれる。だから、一番大好きでいてやらないと、あいつが可哀想だろ?」
 悪魔のような言葉だ。
「……さすがは、魔王様」
 世間で悪と罵られる魔族が可愛く見えた。
 傲慢で、身勝手だ。男はまだ見ぬヒールに同情の思いを贈らずにはいられない。
「さあ、オレをあいつのところへ案内してもらおうか」



 適当に走っていると、小さな小屋を見つけた。
 相変わらず人の気配はしないが、先ほどの女の件がある。ヒールはそっと扉を開けて中の様子を見た。
 中は綺麗だが、生活感はある。誰かが住んでいるのは間違いないだろう。だが、人の姿が見当たらない。
「ちょっと邪魔するぞ」
 念のために声をかけて小屋の中に入る。返事がないので、奥の部屋へと進んで行く。
「ん? 誰かいるのか」
 奥にはベットが一つだけ置かれている。不自然に膨らんでいるところを見ると、誰かが眠っているのだろう。そっと近づき、この小屋の住人の顔を見る。
「……青い髪?」
 目蓋が閉じられているので、瞳の色はわからない。だが、このような髪の色がそう何人もいるとは思えない。まさかとは思うが、あの女の言っていた『あの人』とは、この男なのではないだろうか。
 敵の巣に自ら身を投げ入れてしまった。ヒールはすぐにでもここから出ようと、扉へ向かう。
「やっぱり、その人が目当てだったのね」
「遅かったか」
 目をぎらつかせた女が立っている。その手には包丁が握られている。
「でも無駄よ。あの人はとっくにあたしの物。あたしだけのもの」
 狂ったように笑い声を上げる。美しい姿も、こうなると不気味でしかない。
「あの人はあたしだけの物。あたしがこの手で優しく心臓を突き刺してあげたの。
 最期に見てたのはあたし。最期に言葉を交わしたのはあたし。最期に口にしたのはあたしの舌。ほら、ぜーんぶあたし。あたしだけ!」
 心臓を突き刺されて生きている人間などいない。つまり、あのベットで寝ている男は死んでいるのだろう。死が間近に感じられ、ヒールは思わず頬を緩めた。
 生死を賭けた緊張感というものは、どうしてこうも興奮するのだろうか。拳を構え、女を見据える。
「しっかし、好きな奴を殺してどーすんだよ」
 ヒールには理解できない行動だ。けれど、女は自分の行った行動に満足感を覚えているようで、その顔から笑みが消えることはない。
「愛してたの。殺したいほど愛していたの。
 あの人の息が止まるのをこの腕で感じたわ。悲しかったわ。でも、それでも好きだったの」
 包丁を振り上げた女が突進してくる。
 女の腕を掴み、包丁をそらして拳を叩きこもうとする。だが、その前に包丁がヒールの顔に向かって投げ飛ばされた。拳を解き、後ろに体をのけぞらせる。だが、それで終わるヒールではない。
 バク転の要領で、女の顎を蹴り上げる。凶器を持っているとはいえ、相手は女。ヒールの蹴りをまともに受けては立っていられるはずもない。
「せっかく見逃してやったのに」
 目を細めて女に跨る。
「さよならだな」
 拳を握り、女の顔に叩きつけようとする。
「おいおい。それでも僧侶か?」
 人を小馬鹿にしたような声に、顔を上げてみる。
 そこには予想に反することなく、にやけた面をした勇者が立っていた。その隣には、ベットで見た男が立っている。
「あ……? あんた、この女に殺されたんじゃ……」
「ええそうですよ」
 男の言葉に、勇者も驚いたのか目を丸くしている。半透明なわけでもなく、足もしっかりとついている男が幽霊には見えない。
「この世界は私の世界ですから。この程度は楽々できちゃうのですよ」
「何を言っているの? あなた達、何を見ているの?」
 女が目を見開いて言葉を吐く。どうやら、この女には男の姿が見えないようだ。
「狂ってるんですよ。彼女も、私も」
 憂いを彩った言葉が零れ落ちる。
「彼女は私を殺したことが幸せすぎて、私がこうして魔力だけの存在になっているのを認められないのです。
 私は私を殺して幸せになった彼女を見ているのが幸せでしかたないのです。狂っていることは遠の昔に気づいていました」
 ヒールに押さえつけられ、動くことのできない女に近づく。頬に触れる手つきは優しい。だが、女がそれに気づくことはない。半狂乱になって騒いでいるだけだ。
「……殺してください」
「誰をだ」
 勇者の問いに、男は静かに答える。
「彼女を」
 もう楽にしてあげて欲しい。こんな世界にいては、女はますます狂っていくだろう。男の死体だけを抱き締め、その他の全てを捨てるだろう。
「これは酷い裏切りです。ですが、私はもう彼女の傍にいられない」
 女が男を見ないのならば、男はやはり存在しないのだろう。
「……あのクソ勇者にはオレしかいない」
 そっと女の首に手をかけながらヒールが言う。勇者は言葉の続きを黙って待っている。
「あいつにツッコミを入れてやるのも、止めてやるのも、一緒にいてやるのも、オレしかできねーだろうよ」
「あっ……ああ……」
 手に力を入れ、女の首を絞めていく。空気を欲した女の哀れな声が小屋に響いていた。
「この女にはあんたしかいないだろうし、あんたには女しかいないんだろうな」
 骨が折れる音がして、女のうめき声もやむ。ヒールは力のない女の体を抱き上げ、ベットにまで運ぶ。シーツをめくりあげると、男の胸の辺りは真っ赤にそまっていた。
「だから、一緒に消えちまいな」
 男の横に女の体を並べ、シーツを元に戻す。
 振り返った場所に、もう男はいない。
「オレは別にお前なんていなくてもいいけどな」
「お前はよくても、周りの人間が迷惑するんだよ」
 小屋から出て、相変わらず静かな空を見上げる。全て片付いたと思っていたが、この世界は未だにこうして形を留めている。どうすれば出られるのか見当もつかない。
「おい。この変な場所からはどうすりゃ出られるんだ」
「異空間を作ってたあいつが消えたんだし、そのうち勝手に世界が砕けて元の場所に戻れるさ」
 それまでは、と勇者は草むらに体を預ける。静か過ぎる世界も悪くはない。
 ヒールもそれにならい、草に体を預ける。
 世界が壊れるまでの数分間、確かに世界は二人っきりだった。


END


―――――
指定された文字列
世界に二人きり
裏切り
殺してくれ
世界で一番大好き
世界で一番大嫌い
それでも好きだった
狂っているのはわかってる
あいつには俺しかいないんだ
可哀想に
俺だけがあいつをわかってやれるんだ


結論……もう二度としない