世界は急速に滅びつつあった。
森林伐採。オゾン層の破壊。動物の乱獲。
地球の生態系は完全に潰れ、生物達は種の存続を諦めた。今生きることだけを考え、未来への希望など抱かない。
それが地球の意思。地球に住まう生物の意思。だが、例外があった。
人間と言う種族だけが、世界の意思を汲みとることができなかった。自然から離れた人間は、地球の意思など感じることはできなかったのだ。
ただ闇雲に生きよう。進化しよう。生物の頂点に立とう。そう考え、凄まじい化学力を使った。
それにより、地球の命が永らえた。などということはなかった。もはやとりかえしのつかないところまできているのだ。
何をしようとも、それは世界のダメージを増やすだけ。癒されることがない傷だと人間は気づかない。
動物達はあきれた。
何故あのような生物がこの世に存在しているのだろうか。しかし、動物達の中には人間は哀れなのだという者もいた。
世界の意思を感じられなくなった生物。罪深さと同じくらい哀れな生き物。それが人間なのだと。
一羽のツバメがとある研究施設へやってきた。
「始めまして人間様」
ツバメは人間の言葉を話した。
無論、研究施設にいた人間達は驚いた。これが現実なのかどうかもわからない。
「この度は私達の子供を預けに参りました」
驚く人間達を横目に、ツバメは空を見た。それにつられて空を見た人間達はさらに驚く。
人間の赤ん坊が、羽根を羽ばたかせて飛んでいるのだ。
「かあ、さん。オレ、ここで、いき、る?」
「ええ。そうよ」
羽根を生やした子供はツバメに話しかけ、ツバメは子供を愛おしそうに見る。
「…………」
悲しそうな目を一度見せたツバメは、静かに空へ羽ばたいて消えた。
「…………何が起こったんだ?」
人間達は首を傾げる。
夢だったのかもしれない。そう思ったが、目の前にいる羽根の生えた子供は消えていない。
「オレは、えん、い。燕異」
燕異は自分の名前を主張した。
始めはぼんやりしていた人間達だったが、しだいに事の重大さに気づいた。
「この子は、ツバメの変異種だ」
誰かの言葉を始めに、次々意見が飛びかう。
言葉を話すツバメの子供。羽根を持ち、空を飛ぶ子供。それはこれ以上ない研究対象。
「これからは、ここが君の家だ」
「い、え」
「そうだよ」
まずはもっと流暢に話せるようにしよう。親は流暢に喋っていたのだから、できないはずがない。おそらくまだ幼いだけなのだろう。
こうして、研究施設に赤ん坊がやってきた。
人間達は赤ん坊の役目など知らない。知ろうともしなかった。ただ、目の前にいる研究対象を使い、社会に貢献できる何かを作り出そうと考えるばかり。
燕異は研究員の者達に育てられた。
言葉を教わり、今の社会を知った。同時に、人間という生き物のことも知った。
燕異にものを教えたのは人間だけではない。様々な鳥が燕異にものを教えた。
鳥達が教えたことは、燕異の使命についてのことと、燕異と同じ使命を持つ者のこと。
二つの種族に育てられた燕異は、三ヶ月程度で少年と呼べる外見に成長した。
「今日もヒマだなぁ……っと」
この研究施設は病院という機能も備わっていた。いや、むしろ病院のついでに研究もできる場所。と言うほうが正しいかもしれない。
一般の人間がいるところと、燕異がいるところは隔離されていたが、燕異は何度も人間の子供の声を聞
いていた。そして思うのだ。どうして自分はこんな籠の中にいるのだろうかと。
理由はわかっている。それがどれほど大切なことかも知っている。だが、燕異は寂しかった。
万が一人間に見つかってもいいように、羽根のふくらみはリュックで隠されているが、人間と会うことを許されているわけではない。
限られた範囲を散歩することしか許されない。
「…………」
こんな生活を続けていると、いつか自分はツバメであることを忘れてしまうのではないかと燕異は思い始めていた。
「……初め、まし、て?」
そんな時だった、研究施設の中庭で一人の少女と出会ったのは。
少女とは言っても、見た目は燕異とそう変わらない年頃の女の子で、胸には『SV00―0000/玲』と書かれていた。
「玲……?」
そんな名前は聞いたこともない。まだここにきて三ヶ月程度しかたっていないが、燕異はこの研究施設のことで知らないことがあるとは思っていなかった。
「ええ。私は玲。あなたは?」
優しい微笑で玲は燕異に尋ねた。
燕異は何となく気恥ずかしくなって、自分の胸についているネームプレートを指差した。
「……えん、い? 難しい漢字ね」
「ああ」
自分のことを知らないということは、玲はまだ新入りなのだろうと燕異は判断した。それならば自分が玲のことを知らないのも頷ける。
「玲はどうしてここに?」
「…………言っちゃダメって言われてるの」
玲から微笑みが消え、少し悲しそうな表情へと変わった。
燕異は酷いことを言ったように感じ、何とか玲に先ほどのように微笑んで欲しいと思った。
「そ、そうか……。
玲は、不思議な髪の色をしているな」
燕異の言ったとおり、玲の髪は艶やかな緑色をしていた。自然には生まれないであろう髪の色なのだが、最低限の情報しか知らぬ燕異がそれを知っているはずもない。
「……綺麗?」
「まぁ、悪くはないな」
照れ隠しにそっけなく言うが、玲は全てを見通していますと言わんばかりに微笑んだ。
少しむっとした燕異だったが、玲が笑っているのでどうでもいいかと思える。それほど玲の微笑みは暖かく、優しかった。
「玲はこの研究施設の面白いところ知ってるか?」
「ううん。私、まだ来たばかりだから……」
玲の言葉に燕異は自分の考えが正しかったことを知った。
「じゃあオレが教えてやるよ!」
そう言って玲の手を少々乱暴に掴んだ。
「…………」
しかし、玲は動かない。
「どうしたんだ? 行こうぜ」
一向に動こうとしない玲に燕異は首を傾げる。
「私、あまり動くことができないの……。
だから、ここでゆっくり日向ぼっこをしようと思って……」
寂しげな表情を浮かべた玲に燕異は動揺した。自分の一言で玲の表情が変わるのは嬉しいが、同時に怖い。
研究員は燕異の言葉で表情を変えることはない。鳥達には表情らしい表情がない。
だから自分の発言で表情を変える玲は、燕異にとって始めての存在だったのだ。
「じゃあ、オレがたくさん見てきてやる!
んで、それを全部教えてやる」
燕異は弱々しい玲の瞳をじっと見据えて言った。
「……うん!」
嘘の混じっていない瞳とその言葉。玲は太陽のように笑った。
「じゃあ、明日。また明日こいよ」
今日はまだ話すことがないので、とりあえず話のネタでも探しに行こう燕異は背を向けた。だが、立ち去る前に玲が吹くの袖を弱々しく掴んだ。
「行かないで。ここに、いて」
ためらいがちなその呟きに燕異は胸を打たれる。
「どうしてもって言うなら」
玲の横に燕異は腰を落ち着けた。
どちらも口を開くことはなかったが、並んで日の光を浴びている時間は幸せなものだった。
あまりにも幸せすぎて、この世の全ての者が幸せなのだと勘違いするほどだった。
「私。もう行くわ」
名残惜しそうに立ち上がり、歩いて行った玲の先には一人の研究員が立っていた。玲は彼に気づいたから去って行ったのだろう。
まだ日は暮れていない。たとえ暮れたとしても研究施設は常に明るい。燕異はまた明日会うであろう玲のために、研究施設を探検することにした。
この研究施設が何を研究しているのか燕異はまったく知らなかった。知る必要もなかった。だが、探検しているうちに、研究内容が徐々に明らかになっていった。
簡潔に言うならば、遺伝子を組み替える研究をしている。
植物の遺伝子を組み替え、成長をより素早くさせたり、肉の味がする植物を生み出したりしているのだ。
奇妙な色をした液体や、植物が目のつく場所に置かれているが、関係者しかこの施設にはいないので、問題はないのだろう。
時折鼻をつくような臭いがしたが、それも研究の一環なのだろう。
「なんかねーかなぁ」
玲を喜ばせたいからではない。燕異は何度も自分に言い聞かせた。あの笑顔を見ると、なぜか自分も嬉しくなる。だから、こうして面白いことがないか調べているのだ。
「なんだ? あれ」
燕異が見たのは、人一人くらいならば余裕で入りそうな水槽。中には緑色の液体と、植物の種子が一つ入れられていた。
水槽に手をつき、中を見てみるが、それがいったいなんの研究なのかさっぱり理解できない。
「……つまんね」
玲が聞いても喜びそうなものではないなと思い、燕異はその場を静かに去った。
液体の色と玲の髪の色が酷似していたことになど、気づきもせず。
次の日、玲と燕異は約束どおり顔を合わせた。
玲は日に当たりながら優しく微笑み、燕異はそれに向かって元気に手を振った。
「こんにちは」
「おう。こんにちは」
『こんにちは』など、今まで言ったことがなかった。
研究員達がその言葉を使っているのを聞いたことはあるが、実際に使うのは初めてだった。そのためか燕異の声は不思議と緊張していた。
「楽しいものはあった?」
玲の質問に燕異は肩を揺らす。
この研究施設は燕異が思っていたもの以上に退屈だったのだ。
研究員達は黙って作業をし、失敗したのか成功したのかわからないような動植物がその辺りに放置されている。
隠し扉もなければ、可愛い小鳥がいる巣もない。
「えっと……」
「ふふ。別にいいのよ?
だって、燕異は一生懸命探してくれたんでしょ?」
玲はとても大人っぽかった。
笑顔や微笑は子供のように可愛く、明るいのに、その言動はとても冷静で大人の余裕が感じられた。
そのミスマッチさが燕異をさらにのめり込ませる。
「でも……」
「いいの。
今日は私がお話するから」
再び玲は微笑んだ。
「私は木の声が聞こえるの。
……って言ったら疑う?」
「いや。玲が言うなら信じる」
自分も鳥の声が聞こえるのだから、疑う必要などない。それに、そういうことならば玲がこの研究施設にいるのも納得がいく。
「本当? よかった……」
「言ってよかったのか?
黙とけって言われてるんじゃないのか?」
ふと心配になって尋ねてみる。
このことを言ってしまったばかりに、玲が研究員の奴らに暴力を振るわれるようなことになったら耐えられない。
「昨日、あなたになら言っても大丈夫って言われたの」
言われて燕異は理解した。
昨日の研究員は当然自分のことを知っている。燕異がここから出られないことも、本当は人間ではないことも。
「ああ。なるほど……」
気づいて落胆した。
研究員は自分の正体を言ったはずだ。だとすれば、玲は自分のことを嫌うかもしれない。そう考えたのだ。
「なぜかしら? 近い年齢の友達ができない私への哀れみだったのかな?」
玲は卑屈さの欠片もなくそう言った。そして燕異は知った。玲はまだ気づいていないと。
「……あ、ああ! そうかもな!
子供はオレと玲だけだから!」
玲がまだ気づいていない。そう知っただけで燕異は嬉しかった。嬉しくて、嬉しくてしかたがなかった。まだこうして話せることが幸せでたまらない。
その日、玲は木々の喜び、悲しみについて話してくれた。
話の中には、長い時を生きる木々ならではの話もあり、生まれてまだ一年も経っていない燕異には興味深い話ばかりだった。
自分から話題を提供することができないのは残念だった。それでも玲が話をしてくれるのは嬉しかった。玲がその口から音を一つ発するたび、自分と玲の距離が縮まるような気さえしたのだ。
日が暮れ、研究員が玲を迎えに来るまで二人の話は続いた。
「次は燕異の番だからね」
「まかせとけ!」
二人はそう言って別れた。
玲が木々の言葉がわかると教えてくれたのだから、次は自分が鳥の言葉がわかると教えよう。
そしたら鳥達の話をしよう。長い、長い南下の旅の話、雨の日の苦労。木々に実る木の実のありがたさ。それならば話せる。
明後日は玲の番だ。明々後日はまた燕異の番だ。そうやって交互に話していく。お互いが死ぬまでそれは続くのだ。燕異はそう思っていた。
「忘れてない?」
幸せな想像に浸っていた燕異の耳に一つの声が届いた。
「あなたの、使命」
燕異に声をかけてきたのは一羽の鳥だった。
使命を忘れかけていた燕異に釘を刺しにきたのだ。
「……忘れてないよ」
燕異は歯を食いしばった。幸せが永遠に続くなど、ありえはしなかったのだ。
自分が背負っている使命は確実に人々を不幸にする。それは決定事項なのだ。燕異は決まりきったことを実行するためのきっかけを作るにすぎない。
「でも、もし……」
選択を変えたとしたならば。
きっかけを与えなければ。この使命を背負っているのは燕異だけではないが、たった一人でも否定を始めれば誰かがそれに乗ってくれるかもしれない。
かもしれない。などという不確定なものにすがるのはみっともないが、それが玲のためになるのならば。玲と自分の幸せな時間を長くするためならば、多少のみっともなさはどうだっていい。
燕異は決心した。
選択の時がきたとしても、自分は幸せのために言葉をつむごう。エゴだとわかっている。それによって
もたらされる最悪の事態も予測できる。それでも、それでも燕異はすがりたかった。目の前にある幸せに。
燕異が決心して、しばらく月日が流れた。
交互にお互いのことを話し、研究員のドジな話や、世間話を聞かせあった。それはとても小さな世界に囚われてしまった二人の世界を広げることにもつながった。
燕異が関心を持たなかった話を玲は聞き、燕異が関心を持つように話した。玲が聞くことのできないような話を燕異は聞き、玲に話した。
それは相変わらず幸せなものだったし、永遠に続きそうなものでもあった。ただ、それが本当に永遠のものかと聞かれれば、答えは言わずともでている。
「……玲、遅いな」
その日は雨だった。
雨の日は隣にある病院へ通院してくる者もいない。雨は強酸性で、傘も溶かしてしまう。傘などは日傘程度のものしか存在しない。
晴れの日や曇りの日は紫外線で肌を焼かれ皮膚がんになり、雨の日は酸性雨で体を溶かされる。外に出るために必要なものをそろえるには金がかかる。
建物は人体に有害なものを取り除く仕組みに成っているが、一般人は外に出ることすら難しい状況になってしまっている。
「あー。雨って嫌だよなぁ」
雨が降ると日が差さない。日が差さないと玲は悲しそうな顔をする。
燕異はやむことのない雨を見ながらずっと玲を待っていた。そう、中庭が真っ暗になるまで、ずっと待ち続けていた。
気づけば燕異は中庭で眠ってしまい、目が覚めたときにはか細い光が辺りを照らしていた。
「朝……」
夜が明けてしまった。玲はこなかった。
「何でだよ」
嫌われてしまったのだろうか。昨日何か気に触ることを言ってしまったのだろうか。それとも正体がばれてしまったのだろうか。
嫌われる理由はいくつも思いついた。
人と接することがなれていなくて、玲があまりにも優しすぎて、つい甘えてしまっていた。素直になることができず、つい乱暴な言い方やひどい言い方をしてしまったこともある。
「せめて、なんか言ってからにしろよ……」
言ってくれれば直す努力をした。心に秘めている恥ずかしい思いをぶちまけることだってしたかもしれない。
何も言わずに去ってしまうなんて、あんまりだ。
燕異は気づかぬうちに涙を流していた。
初めて胸に抱いた思いは伝えられることはないのだろうか。このまま何もわからぬうちにこの思いは消えてしまうのだろうか。
「燕異」
一人の女性研究員がうずくまる燕異に声をかけてきた。
「…………」
言葉を返す気にもなれず、燕異はただ女性研究員の顔を見上げた。
「私が言ったってことは内緒にしてちょうだい。
実験番号SV00‐0000、玲は、B棟の二階、一番奥にある実験室にいるわ」
女性研究員の言葉に燕異は目を見開いた。
B棟のことは燕異も知っていた。そこは実験動物などがいれられる場所。燕異もこの研究施設にきた当初はB棟に入れられていた。
そこでされているものは『実験』という枠を超えたものと言っても過言ではなかった。燕異は走り出した。
嫌われてなかったのだという喜び。玲がどういう状態にあるのだろうかという恐怖。燕異はさまざまな感情に背を押され、B棟の二階へ駆け上がった。
二階とは言っても、高さは五階にあるのとそう変わらない。
B棟は一階と二階の間がかなり開いている。
「はっ……はっ……!」
見た目は人間の燕異だが、種族は確かに鳥類。走るのはあまり得意ではない。
体力はすぐにつき、二階への長い道のりはまだ半分もきていない。
「オ、オレが……人間……だった、なら……っ!」
同属に聞かれでもしたら批判を受けそうな言葉であったが、燕異は心の底から思った。
ふと、窓から外を見てみると、雨はやみ、雲の切れ間から光が差し込んでいた。
「……空」
人間は昔、鳥のように飛ぶことを望んだ。
「オレは、人間みたいに走ることはできない。
二階まで駆け上がるなんて無理だ……でも!」
燕異はいつも背負っていたリュックを放り投げ、背中から立派な紺の羽根を広げた。
「人間にはない翼がオレにはある!」
窓の外に体を押し出し、翼を羽ばたかせる。
しばらく飛んでいなかったため、うまく飛ぶことができないが、そんなことにかまっていられない。
不恰好だが、羽根を羽ばたかせ、上へ、上へ飛ぶ。
ようやく二階の窓が燕異の目に映った。窓の向こう側には階段が見える。
燕異は覚悟を決め、窓に突撃した。
窓ガラスの割れる音が静かな廊下に響いたが、誰も出てくる気配はない。先ほどの女性研究員が言っていた場所で何か実験を集中してやっているのか、それとも、ここには誰もいないのか。
燕異にはわからなかったが、そんなことにかまってる暇はない。
大きな翼を折りたたみ、燕異は廊下を走った。本当は廊下も飛んだほうが早かったのだが、それができるほど廊下は広くなかった。
「玲……。玲……!」
長い廊下に燕異は焦った。たどりつけるのだろうかなどという不安まで沸いてきた。
ようやくたどり着いた最奥の扉は今まで見た扉の中でもっとも大きく、もっとも威圧的だった。
「れ……い……!」
燕異は力いっぱい扉を押したが、扉はびくともしなかった。燕異は試しに扉を引いてみたが、やはり扉は動かない。左右に引っ張ってみても結果は同じだった。
「玲! いるんだろ?
開けてくれ!」
必死に扉を叩きながら燕異は叫んだ。叫ぶことで玲が扉を開けてくれるかもしれないなどという期待は微塵もしていない。
玲は出てこないだろうが、研究員が開けてくれるかもしれない。人間の中にもあの女性研究員のような者がいるのだから。
しばらく燕異が扉を叩いていると、唐突に扉が開き、燕異は扉の内側に無理やり引き入れられた。
「玲!」
中に入った燕異は見覚えのある緑の髪に思わず名前を呼んだ。
「……れ、い」
しかし、その全貌はあまりにも悲惨なものだった。
玲の髪と同じ色の液体につけられた玲のまぶたは硬く閉ざされており、体には幾つものチューブが取り付けられていた。
さまざまな計測器に囲まれた玲はまるで眠りの森のお姫様のようだった。ただ、そんな神秘的で美しいものではなかったが。
「どうして……」
それしか言えなかった。
玲が生きているようには見えなかった。もう動くことも、話すことも、あの優しい笑顔を見せることもない。
「お前がSV00‐0000と仲がいいのは知っていた」
一人の研究員が燕異に言葉を投げかけた。
「お前は知らなかっただろうが、SV-0000は人間ではない。
奴は我々が遺伝子組み換えにより生み出した異種植物だ」
研究員の言葉は燕異の脳を素通りしかけた。
「いしゅ、植物……」
思わず言葉を繰り返す。
「そうだ。我々はお前のことを変異ツバメと名づけた。
その直後だった、SV‐0000が生まれたのは」
研究員は過去の栄光を思い出すかのような表情で語る。
「本当に偶然の出来事だった。栄養価、成長率。その他諸々の要素を組み込んだ植物を作り出すつもりだったのだ。
そのために作り出した種を特殊な培養液につけ、しばらく成長を見守っていた」
特殊な培養液とは目の前にある緑色の液体なのだろうと燕異は予測した。自然には作り出されないであろう色をした液体。それは鈍く光っていた。
「だが、ある日! その種子はある人の形へと姿を変えていたのだ!」
「それが、玲……」
呟くように燕異が言った。
「そうだ。あれは画期的だぞ!
太陽の光と水だけで生きていけるうえに、防護服も必要としない。最高の労働力だ!」
高らかに笑い声を上げた研究員を殴りたいという気持ちが燕異に生まれた。その証拠に燕異の拳は硬く握られている。
「だが、奴には体力がなかった……。元が植物なだけに動くことを必要としないのだ。しかも、奴以外変種植物は生まれなかった……!
だが、それも今日で終わりだ!」
一瞬、悔しげな表情をした研究員だったが、すぐに嬉々とした表情を見せた。
「我々は植物を強制的に実らせる装置を開発した!
これを使えば、SV00‐0000から種子が採取され、そこから新たな変種植物が生まれる。
変種植物についての研究はほぼ完了した。後はSV00‐0000から生まれた変種植物を使って実験するだけだ」
玲は強制的に子供を生まされるのだ。
「……そうしたら、玲はどうなるんだ?」
「この装置は植物に大きなダメージを与える。
残念だが、SSV00‐0000は枯れる」
残念だと研究員は言ったが、それは『もったいない』と同意義だ。玲が死ぬことなど、何とも思っていない。
人間の労働力のために、玲は殺される。
「やめろ!」
そんなことを言ったところで、何かが変わるとは思っていなかったが、燕異は言わずにはいられなかった。
「やれ」
無常な一言が響いた。
号令とともに一人の研究員がレバーを引く。とたんに緑の液体は眩しく光輝いた。
まるで、玲の生命力を使って発光しているかのようであった。
何か言うことも、何か行動に移すこともできずに、ただ見ているだけの燕異の目の前で、玲の体はだんだんしわだらけになる。そしてふくらみのある体は枯れ木のように細くなっていった。
そして、その時はきた。
玲の体は本当の木になってしまった。小さな、小さな金木犀(きんもくせい)。
小さな金木犀は多くの種を液体の中にばら撒いた。玲の種。玲の子供。
「よし。回収しろ」
玲が消えてしまったという真実に、目の前が真っ暗になってしまう。その場から動くことができなかった。
笑っていた玲。少し困った顔をしていた玲。寂しそうな玲。
玲のさまざまな表情が燕異の脳裏をよぎった。
「また明日」
玲は最後にそう言っていた。それが玲の燕異に向けた最後の言葉だった。
「また、明日って……言っただろ?」
燕異は液体の中の金木犀にすがるように言った。
「オレ、昨日ずっと待ってたんだ。寒かったけど、ずっとずっと待ってた」
金木犀は沈黙したまま。
「だからさ、こうして会いにきたんだ。
…………でも、もう喋れない」
燕異の中で答えがでた。自分の使命に対する答え。
「玲。人間は酷いな。玲を生み出したくせに、玲を殺したんだ。
あいつらは玲のことなんて、モルモット以下にしか思ってなかったんだ」
部屋にはすでに誰もいなかった。いるのはツバメと金木犀だけ。
「全て自分達のためだ。他のことなんて考えない。
あいつらは快楽のために自然を破壊し、種を滅ばしていった」
燕異は冷たい声で続けた。
「でも……。オレはそんなのどうでもよかった。
人間がどんな存在かなんて。大体、答えは決まってるんだから、何も感じなくてよかった。答えを出さなくてもよかった。
それでもオレは答えをだしたよ。玲が、玲が殺されたから」
液体に漬かったままの金木犀に燕異は優しく微笑む。
「人間は、滅ぼされるべきだ」
他の動植物のように絶滅を選べない哀れな種族だから、滅ぼしてあげよう。奴らが滅べば他の種は滅ばなくてもすむ。
でも、人間だって同じ地球に住む生き物だから、チャンスをあげよう。動植物達は決めた。そして、変異種達を世に放った。
ある者は人間として社会に溶け込み、ある者は山奥に住む種族となり、またある者は研究施設へと送られた。
全員の判決がでるまで行動は起こさない。
そして今、一人の判決が出た。
「優しい玲。次はツバメに生まれてきてくれよ」
燕異はそう言い残し、静かに部屋を出た。自分が出した判決を伝えなければいけない。
「……あ」
その前に、玲のことを教えてくれた女性研究員にはこのことを教えておいてあげたい。
それが彼女にとっていいことなのか、悪いことなのか。それはわからないが。
「どこだろう……」
燕異は女性研究員を探した。答えをだしてしまうと心は軽くなり、人一人を探すという面倒なことも苦にならなかった。
一つの扉のノブを燕異はひねった。
開いた扉の先には探していた女性研究員がいた。ただし、彼女は燕異が見たときとはあきらかに様子が違っていた。
「…………し、んでる?」
扉の先にいた女性研究員は床に倒れていた。傍らには毒薬と、一枚の紙。
『私の死体を見つけてくださった方へ。
私にはもう父も母もいません。二人とも病で死んでしまいました。私達はいったいどこで間違えたのでしょうか?
生活を豊かにするために科学を発展させてきたはずなのに、その結果はこれです。地球温暖化はとまらず、オゾンホールは広がるばかり。いつの間にか外へ出ることも難しくなっていました。
父や母が子供だったとき、まだ外に出ることはできたと言っていました。
祖母や祖父が子供だったとき、地球には緑があり、外で作った農作物が流通していたと言っていました。
私は父や母。祖母や祖父がうらやましいです。
きっと、私達人間はもう生きていけません。もう、生きる力などありません。
年間自殺率もまた上がりました。そして、私の自殺によってまた上がるでしょう。まだ幼いころはどうして自ら死ぬのだろうと思っていましたが、今ならわかります。
さようなら。死体の後始末はご迷惑になるでしょう。すみません。皆さんがこちらに来る日を心待ちにしております。
幸恵(ゆきえ)』
それはどう見ても遺書だった。
彼女が最後に残した最後のもの。
彼女の遺書を見て、燕異は初めて知った。人間は、自ら絶滅できない生物ではなかったのだと。
「人間も確実に数を減らしている。人間も、わかってたのか」
このままでは生きられない。後は死ぬしかない。これから先、どれほど科学が発展しようが、何も変わらない。もはや変えることはできない。
このまま放っておいても人間は勝手に絶滅する。だが、人間の数は異常だ。一刻も早く消えて欲しいのならば、絶滅させるしかない。
燕異は考えた。放っておくのもいいだろう。絶滅させるのもいいだろう。
「……玲?」
空の見える場所にまで出ていき、ぼんやりと考えていた燕異の目に見覚えのある緑の髪が映った。
「アナタハ燕異。玲ノ友」
姿は玲に瓜二つだったが、その少女の瞳は虚ろで、話し方は機械的だった。
「お前は?」
「ワタシハSV00―0001。異茅(いち)。
玲ノ種子カラ生マレタ」
異茅は自分の後にも迩(に)や杉(さん)がいると言った。それぞれが玲の記憶を受け継いでいるが、研究員達によって、感情はそぎ落とされ、体力が飛躍的に上昇したらしい。
「玲ノ記憶ノ中デ燕異ハ大キナ割合ヲ占メテイル。
玲ハ、燕異ニ――――」
「いい。言わないでくれ」
いまさら言われてもしょうがないことだ。玲が生きていれば、それは嬉しいことだったかもしれない。だが、結果的に玲は今いない。
「……燕異ハドウスル?」
「何が?」
異茅の質問に燕異は疑問で返す。
「人間ヲ滅ボスノ?」
「それを、どうして……?」
玲には言っていなかったはずだ。研究員達も当然知らないはずだ。
「玲ハ木。木ハタクサン知ッテイル」
変異種とはいえ、玲も木だったのだ。当然、動物の動きを知っていてもおかしくはない。
「そうか。一つ。聞いてもいいか?」
燕異の言葉に異茅は頷いた。
「玲は人間を滅ぼすのに賛成だったか?」
「…………玲ハ、賛成デモ反対デモナカッタ」
異茅ははっきりと告げた。
「人間ガ滅ボウトモ、他ノ動物ガ滅ぼうとも、木ニハ関係ナイ。
最後マデ我々ハ生キル」
いくら数が減ったとはいえ、植物はまだまだ存在する。今は目につかぬだけで、地中深く息を潜めている植物もいる。
「そうだな。植物には、このことは関係ないな」
悲しげに燕異は言った。玲の意思を少しでも継ぎたかった。
「ワタシモ、聞キタイ」
控えめな異茅の言葉。燕異は黙って先を促した。
「モシモ、人間ヲ滅ボシタトシテ、我々ハドウナル?
変異種トシテ、人間ノ姿ヲ得テシマッタ我々ハ……」
変異種はもはや人間でも、動植物でもない。
まったく新しい生物だ。
「殺されるんじゃないか?」
燕異は迷わず言った。
「オレ達は、証だ。
どんな動植物も人間と同等の存在になりえるという、恐ろしい証」
燕異の瞳には悲しみなどなかった。
「人間は勝手な生き物だけど、他の動物だってそうだ。
オレ達が必要じゃなくなったら殺すんだからな。まあ、確定してるわけじゃないけど、たぶんそうなる
」
「貴方はそれでいいの?」
異茅の声に燕異は目を見開いた。
機械的な声ではなく、感情のある声。それは確かに玲のものだった。
「みんな勝手だけど、優しいから。
答えのきまっているこの使命携わってるオレが哀れで、いつも優しくしてくれてる。でも、けっして幸せにはならないようにしてくれてる。死ぬとき、辛くないように……」
これは本当。いつ気づいたのかはわからないが、燕異は気づいてしまった。最後は自分も殺されるのだと。
燕異は微笑んだ。これまでにない優しい微笑み。
「人間が滅びて、まっさらな地球を見てからなら、それもいいと思う」
「ソウ。
ジャア、サヨウナラ」
異茅は燕異に会釈をして去って行った。
「――――」
また明日。とは言えなかった。代わりに燕異は黙ってその背を見送った。
人間を絶滅させるとき、きっとまた会うだろう。異茅は玲ではない。迩も、杉も玲ではない。そして、人間ではない。それでも滅ぼす。
自分達は『人間』という罪の形をとってしまっているから。
「オレの答えは出た」
燕異は広がる大空へ向かって答えを出した。
「オレは――――」
答えは空に溶け、世界は一つの判決を得た。