人間は明るい日の下で生き、魔性の者は日が刺すことのない北の大地に封じ込められていた。人々は魔性の者を北の大地に封じ込めた勇者を崇め讃え、その偉業を子孫に伝えていた。
封印がいつか解けるものと知りつつも、人々は新たな勇者が生まれてくるということを知っていたため、魔性の者に恐れを抱いて生きることはなかった。
幸せな日々はいつまでも続くものと思い、人々は笑いあう。平和ボケしていると言われれば、それを否定することができない。魔性の者がいたころ、町には屈強な兵士達が必ず配備されていたというのに、今では軟弱な兵士が十数人いるにすぎない。
だが、それを不満に思う者などいなかった。平和な世の中に、戦いのための人員など必要ないと誰もが思っていた。
「――魔物だ」
遠くの空を見ていた誰かが呟いた。
魔性の者の中でも、獣に近い形をする魔物。人の形に近い者を魔族というが、そのどちらも北の大地に封印されており、こちらへ出てくることは叶わなかったはず。
その言葉はあっという間に人々に伝わり、誰もが遠くの空を見た。
「封印が、解けたんだ……」
魔性の者で埋め尽くされようとしている空を見て、誰かが絶望した声でもらした。
勇者が魔性の者を封じ込めたのはもう千年も昔の話。封印が解けてしまったとしても不思議ではないほどの時間が流れてしまった。
「逃げろ!」
呆然と立ち尽くすばかりの人々の中で、いち早く正気に戻った者が叫んだ。
その叫びをきっかけに、人々は蜘蛛の子を散らしたかのように逃げ始めた。逃げる準備をする暇などなく、近くにいる幼い子供を連れ、町の外へ逃げ出した。その中には兵士達までもがおり、魔性の者達が町へつくころには、そこはもぬけのからだった。
「魔王様。ここにいた人間は逃げたようです」
町に下りたった魔族の一人が魔王に報告する。
「そうか。ならばさらに南下するぞ」
魔王の言葉に、魔性の者達は叫び、南下し始めた。
地上も、空も魔性の者が埋め尽くし、南へ迫ってくるというのは、人間からすれば恐怖でしかない。逃げることのできた人々も急いで南へ向かい、町や村へ魔性の者がやってくることを伝えて回った。
伝えを聞いた者達はまた南へ逃げる。目指すは最南にある王国。そこならば、屈強な兵士がいる。そして何より、一刻も早く勇者を探してもらう必要がある。
どれほど屈強な兵士がそろったところで、魔法を使うことのできる魔性の者達に勝つことはできない。ヤツラを倒すことができるのは勇者だけなのだ。
封印が解けたという話は、数日もすれば国王の耳に入った。
「そんな馬鹿な……。
勇者が生まれたという報告はまだ入っとらんというのに……」
国王は口元を手で覆い、これからのことを考えた。
これから多くの民が居場所を失い、王国へやってくるだろう。だが、それらを全て受け入れることは到底かなわない。
「王国近くに、簡易住居を作れ! そして、勇者らしき者が生まれていないか捜索せよ」
王の命を受け、王国周辺にテントが張られた。同時に、勇者の捜索も開始された。
魔王の封印は何度も行われ、その封印が解けるころ、勇者がまた生まれる。それは何万年と繰りかえされてきた運命。二人の容姿は変わることなく受け継がれ続けた。
漆黒の髪、褐色の肌を持ち、黄金の角を持つ魔王。流れるような金糸の髪に、大空のような碧の瞳。目元に特殊な痣を持つ勇者。
なので、勇者の容姿に当てはまる者が生まれたのならば、即刻王国へ報告することになっていた。だが、勇者が生まれたという報告を王は受けていない。もしも、勇者がまだ生まれていないとするならば、少なくとも二十年は魔性の者の支配が続く。いや、最悪の場合は、生まれたばかりの勇者を殺され、百年以上の支配を受けることもありえる。
王は神に祈るような気持ちで、勇者発見の報告を待つ。
王が勇者の発見を祈っているころ、一つの村が危機に瀕していた。
その村はあまりに小さく、ひっそりとしていたために、北の方から逃げてきた人々はその村へ魔性の者が復活したということを伝え忘れてしたのだ。
「この村の者は逃げておりませんね」
空を見上げることもなかった村の人々は、あっと言う間に魔性の者達に囲まれてしまった。
「どうか、どうか村を破壊しないでください……」
村の人々は、家畜や農作物を攻撃されるのを恐れ、自然と広場に集まり魔性の者達に懇願した。逃げることができないというのに、生きるためのものを壊されてしまえば、本当に死んでしまう。
「貴様達が反抗しなければ、何もしない」
漆黒の髪をなびかせ、魔王は人々の目の前に現れた。
魔王には威圧感があった。目の前にいるだけで、圧迫死させられそうなその威圧感に、親は子供を抱え込み、夫は妻を後ろに隠した。
「何か言いたいことがあるならば言うがいい」
ニヤリと笑うと、魔王の恐ろしさは一層際立った。
当然、誰も何も口を開かない。小動物のよう弱々しく怯えるだけ。
「この、クソ魔王がっ!」
小動物の群れの中から、一人、牙をむけた者がいた。
「貴様、魔王様に何と言う口を!」
「下がれ」
魔王に牙を向いたのは一人の少年であった。魔族の一人が少年を始末しようとしたが、魔王は面白そうに笑い、魔族を止めた。
「ですが……」
「本当に言ってくるヤツは始めてだ。
魔族の者でも我には黙って従う」
魔王の楽しそうな表情に、少年は不快だという表情を隠さない。
「で、一体何が言いたい?」
寛容な態度を取る魔王に、少年は吐き捨てるように言う。
「何でこんな小さな村を襲った?」
まったくためらうことのない言い方に、村の者は怯え、魔性の者達は敵意を見せた。
「特に理由などない。
我は村だから、町だから。大きいから。小さいから。という区別はせん。そこにあるから制圧する。それだけだ」
罪悪感など一欠片もないような顔をして魔王は答える。
「出ていけ」
「断る」
少年の足は震えていたが、魔王に言いたいことを言ってやるために、少年は何とか足を前へ進めた。
「もうここに用はないだろ」
「確かにその意見は間違っておらん。
だが、我はここを気に入っている」
少しだけ柔らかい表情を魔王は見せた。
「もっとでけぇ町が南にはある」
対して、少年は渋い表情を見せる。
「先ほど言ったはずだが? 我には大小など関係ないと」
もっともなことを言われ、少年は言葉をつまらせた。
「ところで少年」
次の言葉を考えている少年に、魔王の方から声をかけてきた。
「んだよ」
「頭を触ってもいいだろうか?」
距離的に言うならば、魔王が少年の頭を触ることはできる。だが、何故そのような発言にいたったのかわからない。少年だけでなく、村の人も思考回路を止めた。
「……好きにしろよ」
混乱した少年が出した答え。魔王はほんのわずかに頬を緩ませ、しゃがみこんで少年と目線をあわせ、少年の頭に触れた。
触れていただけの手は、ゆっくりと動き、撫でるという動作に変わった。ひどく落ち着かない気持ちになっている少年にかまわず、魔王は両手で少年の頬に触れ始めた。
「おお。これが人間か……」
感激したような声を出す魔王に、後ろに控えていた魔族達が不満をもらした。
「魔王様ずるいです……」
「私も、人間、触りたい」
少年は魔性の者の恐ろしさを疑い始めた。確かに、その力は凄まじいものかもしれないが、人間の頭や頬を触るということを羨ましく思ったりする者が恐ろしい存在だとは思えない。
「世界征服なんてして、どうするんだよ」
魔王に頬を触られながら少年が尋ねると、魔王は手を止め、首を傾げた。
「世界征服? そんなものをする気などないぞ」
嘘をついている目ではなかった。だが、幼いころから魔王は世界を征服しようとする悪い奴だと言われて育ってきた少年は、そう簡単に魔王の言葉を信じることはできない。
「んじゃ、何で村を制圧するんだよ」
眉間にしわを寄せて聞くと、魔王は立ち上がり、空を見上げた。
「我は太陽が好きだ」
眩しそうに目を細めながらも、手をかざすことなく魔王は続ける。
「木々も好きだ。無論、農作物も好きだ」
魔王の言葉に、魔族や魔物は頷いている。
「だから、北に閉じ込められているのは嫌だ」
少年と目をあわせた魔王の瞳は真剣だった。それは先ほどまで少年の髪を撫でて頬を緩ませていた魔王の姿はない。
真剣な瞳に呑まれそうになった少年だが、一つの考えに行きついた。おそらく、それは魔王の話しを聞いていた村の者全員が思ったこと。
「別に、共存でもいいんじゃねーの?」
無意識のうちに、少年は呟いた。
少年の呟きを聞いた魔王は目を見開き、少年を見る。視線だけで人を殺せそうな魔王から目をそらすと、後ろに控えている魔族や魔物達までもが少年を見ていた。
不味いことを言ったのだろうかと、さすがの少年も一歩後ろに下がる。村の者達も魔性の者達の次の行動に怯えながらことの成り行きを見守っている。
「その発想はなかった」
ようやく言葉を発した魔王だったが、村の者からすれば、聞き間違いだったのだろうかと思うような台詞であった。
「共存か……」
「制圧とどう違うんだ?」
「馬鹿。全然違うだろ」
少年の提案をよく噛み締め、考えている魔王の後ろでは、何とも悲しい会話がされている。村の者達の方は、まさかの言葉に驚きを隠せない。
「では聞こう。少年、貴様は我らと共に生きることができると言うのか?」
鋭い視線が少年を射抜く。
ここで首を横に振れば、当然村は制圧される。少年は近くにいた村長にちらりと目を向ける。村長は小さく頷いた。
「もちろんだ」
はっきりとした答えに、魔王は後ろに控えている者達を見ながら考える。
「魔王様。私達は貴方様の意思に従います」
「貴方様の御心のままに」
魔族達の忠誠心を見せつけられ、村の者達は魔王に望みを託す。
「……この村の長は?」
魔王の問いかけに、村長はすぐさま立ち上がった。
「我は大小にこだわる性格ではないが、我らは数が少ないわけではない。この村だけに収まることはできん」
村の者からすれば死刑宣告にも似た言葉。確かに、魔性の者達の数は多くはない。魔物の体が大きいため、遠目からでは空や地上を覆いつくしているように見えるだけであり、実際の数は村の者の数とそう変わらない。
「なら、別の、もっとでかい町へ行けよ!」
少年は長老を押しのけて叫ぶ。
「少年。それは自分のことしか考えていない身勝手な発言だ。
自分さえよければ他はどうなってもいいのか?」
「制圧しろって言ってるわけじゃねーだろ!」
再び魔王と少年の戦いが始まった。
「我らは魔性の者。そう簡単に受け入れられる存在ではないのではないか?」
冷たい言葉だが、それは真実。少年は否定できない。
「だからって、この村を制圧すんのかよ」
悔し紛れの言葉に、魔王は不思議そうな顔をする。
「誰も制圧するとは言っていないはずだが?」
「はあ?」
魔王の台詞に少年は一気に脱力する。
「この村を少々大きくさせてもらいたい。そういう話をしていたのだが?」
よく考えれば、確かに魔王は制圧するとは一言も言っていない。少年は人騒がせな魔王の言い回しに体中の力が抜け、その場に座りこんでしまった。
「よろしいか?」
「も、もちろんですとも」
魔王の問いかけに長老は何度も首を縦にふる。
「そうか……。ならば同盟の証に契約でも結ぶか?」
魔性の者達が契約を重んじていることは、誰もが知っている事実なので、村長も断ることなく同意した。
「魔王様。恐れ多くも、意見したいと思います」
「言ってみよ」
「はっ。
この度のことは全て人間の少年の提案。さらには、この土地はこの者達の土地。彼らのやり方で契約を結ばれるべきではないかと思われます」
魔族の言葉に魔王は頷き、長老にその旨を伝えた。
魔性の者達の契約方法がどのようなものか村長は知らないが、人間のやり方にあわせてくれるというのであれば、それに越したことはない。
村長は少年に紙と筆を持ってこさせ、そこに同盟を組むということを書き、サインをした。
「この書類に目を通し、サインしてくださればけっこうです」
恐る恐る書類と筆を魔王に渡す。受け取った魔王は、書類に目を落とし、眉間にしわを寄せた。
何か不服なところでもあったのかと、誰もが緊張したその時、魔王が少年を呼んだ。
「少年。ここには何と書いてあるのだ?」
少年に書類を手渡し、魔王は尋ねる。
「え、読めねぇの?」
まさかそんなことがあるとは思わない少年は確認のために聞いてみた。
「人間の言葉を学ぶ機会はなかったのだ」
見れば、魔王はバツの悪そうな顔をしていた。
「別にオレが読んでもいいけど、それじゃあ契約としては不味いだろ」
魔族達は少年の言葉に同意した。万が一にでも、魔性の者達に不利益なことを書かれていては困る。契約は絶対なのだから。
「ではどうする?」
「お前らんとこのやり方でいいんじゃね?」
少年の提案に、魔王は困ったような顔をする。
「……我らの契約は互いの手をナイフでつき刺し、血を交わらせるというものだ。
汝らのものと比べると痛みがあるがよいのか?」
告げられた言葉に、少年は勢いよく何度も首を横にふった。一生の傷どころの話ではすまなくなるかもしれない。
どうすることもできず、時間だけがただ過ぎてゆく。
「あ、小指かせよ」
手を刺されたらいたいだろうなと考えていた少年は、一つの良案が浮かんだ。
断る理由もないので、魔王は素直に右手の小指を出す。
出された小指に、少年は自分の小指を絡め、小さく上下に揺らした。
「オレ達は共存する。ゆーびきりげんまーん。嘘ついたら針千本のーます。指切った」
指を離し、少年は魔王を見る。
「約束も契約の一つだろ?」
魔王は頷き、自分の小指をじっと見つめる。どうかしたのだろうかと、少年が尋ねると、魔王は自分の小指が切れていないということが気になっていたらしい。
「言葉のあやってやつだよ」
「そうなのか」
納得したように頷き、魔王は魔族達と向きあった。
「見たか皆の者。
これで我らは共に生きることになった。
もはや太陽を求める必要も、飢えに嘆く必要もない」
幸せそうな魔王の声に、魔族達は大きく雄叫びを上げた。
「ただし。人間達への礼節を欠くことは許さん」
そう言い、魔王は村の者達の方へ向き直る。
「迷惑をかけるかもしれん。だが、受け入れてくれたことをありがたく思う」
村の者達は恐怖から解放されても、しばらくはその場から動くことができないでいた。
「南の辺りを整地してもいいだろうか?」
魔王は村の南にある小高い丘を指差して尋ねる。
「そう、ですね……。東や西には森がございますし、北は……あまり気持ちのいいものではないでしょうから」
村長は言葉を選びながら、何とか答える。いくら契約をかわしたといっても、かたが指きりにそれほどまでの力があるとは思えない。
「私達がやりましょうか?」
魔族の一人が前へでるが、魔王は頷かなかった。
「解放されてから始めて使う魔法が、我らの住む場所のためとは素晴らしいではないか」
右手を丘の方へ向け、魔王は呪文を唱えた。村の者達には理解できない語源だったが、強大な魔力が呪文に力を与えているということは感覚でわかった。
次の瞬間、小高い丘はその姿を消した。正確に言うのならば、小高い丘はまっ平らな草原へと姿を変えた。
「下へ押し込んだ」
平然と言う魔王だが、村の者達は魔法の恐ろしさを再認識させられてしまった。その気になれば、村や町など一瞬で消滅させてしまうだけの力が魔王にはある。
魔王に牙を向けたあの少年でさえ、魔王の力に腰を抜かしてしまった。
「移動しろ」
魔王の命令により、魔族達は移動する。腰を抜かしていた少年だが、あることが頭を過ぎってしまい、またしても口を挟んでしまう。
「家は建てねぇの?」
魔性の者達の最後尾について移動しようとしていた魔王は振り向き、首を傾げる。その仕草だけで、少年はまたしても魔性の者達の知識のなさを知る。
「今まで雨の日とかどうしてたんだよ?」
呆れつつも、北の大地に封じ込められていたのだから多少のすれ違いはしかたないと少年は自分に言い聞かせてたずねる。すると、魔王はさらに首を傾げた。
「あめ……」
「え、雨も知らねぇの?」
雨など、誰の上にも降ってくるものだと思っていた。
「空から水が降ってくるんだ」
空を見上げれば、雲ひとつない快晴。しばらく雨が降る気配はない。
「空から……」
魔王も空を見上げる。光る太陽に目を細める。
「なぁ。おっちゃん、家を建ててやってくれよ」
何とか立ち上がり、自分の家へ帰って行く人の中で少年は大工の男を見つけた。子供の割りに偉そうな少年の言葉ではあるが、大工はそんなことにかまってはいられない。同じ村の仲間の家を建てるのならばともかく、魔性の者の家を建ててやるなど、できるのあれば声高に断りたいところ。
「いや……あの……」
断りたい。けれども、それにより魔性の者達の気分を害するようなことになるのは避けたい。共存するしか道はないとはいえ、すぐに慣れることも心を開くこともできない。
「それは土で作っても構わないのか?」
村にある家は全て木造であった。
「もちろんです……」
小さく大工が答えると、魔王は村の家をじっと見つめ、どれか一件でいいので中に入れて欲しいと頼んだ。
「後は我が作る」
人間の世界のことを何も知らない魔王だが、彼らが自分達を恐れているということはわかっている。これからのためにも、村の者とは良好な関係を築いていきたいと考えている。
控えめな要求ではあったが、魔王を家の中にいれることを了承してくれるような家はない。誰もが魔王を恐れ、近づきたくないと願っている。それに気づいているのか、魔王はわずかに眉を下げている。
「じゃあオレん家こいよ」
少年はいつまでも怯えている大人達にあきれ、魔王の腕を掴んだ。魔王と真っ向から話をした少年の中からは恐怖心が消えつつあった。
「……いや。少年にばかり迷惑をかけるわけにもいかん。
よくわからんが、あの中は生活ができるような空間なのであろう?」
少年は頷き、魔王は少年に礼を言った。
「土ならば我の力でどうとでもなる」
草原になった場所の中心地に魔王は立ち、両手を左右に伸ばす。目を閉じ、丘を消し去ったときのような呪文を紡ぐ。
一体何が起きるのであろうかと少年が見ていると、地面が盛り上がり、家の形を作り始めた。そこには窓もあり、扉もある。気づけば、魔性の者達が暮らすのに不便ない数の家が建てられていた。
動物に近い形をしている魔物に家が必要なのかは別として、その素早い作業に少年は素直に感心した。
「なあ、入ってみてもいいか?」
中は一体どうなっているのだろうかと思い、少年は魔王に駆け寄り尋ねた。
「無論だ」
魔王は頷き、少年は近くの家の扉を開けた。
「…………あ」
扉の向こうはただの空洞だった。部屋を区切る壁もなく、二階へ上がる階段があるわけでもない。最低限の壁と屋に囲まれた空間。
魔王は家の中を知らないのだから、しかたないとは言え、少年はとても寂しい気持ちになった。
「どうした少年。何かおかしな所でもあったか?」
扉を開けた状態で固まってしまった少年に魔王が近づく。少年は何も言えなかった。
部屋のことをどう説明すればいいのかもわからず、今の気持ちを説明することもできない。
「別に……。
なあ、お前らこれからどうすんの?」
まだ日は高く、村の者達は怯えながらもいつも通りの生活をするだろう。ある者は家畜の世話をし、ある者は売り物の服を織る。まだ村にきたばかりだというのに、村の者と接触することが難しい魔性の者達は一体何をするというのだろうか。
「我は森へ行く」
他の者達は好きにさせると言われ、少年は周りを見渡した。始めての家を見て、嬉々とした表情を浮かべているものの、これからの生活に不安を隠せずにいる。
誰もが魔王を頼りにしているというのに、当の本人がこれでは大変だろうと思わず少年は同情する。
「オレも一緒に行ってやるよ」
言いたいこともあったので、少年は自ら進言した。
魔王は少し驚き、首を横にふる。
「先ほども言ったはずだ。少年にばかり迷惑はかけられん」
そう言い、魔王が指差す先には少年の両親が心配そうに見ていた。魔王は帰れと言いたいのだろうが、少年は帰らない。
「母さん! オレ、森で木の実拾ってくる!」
そう叫ぶと、魔王の手を掴み森へ向かって走る。
「貴様は本当に面白い」
喉を奮わせて魔王が笑う。
「あのさー。お前、もっと部下のことも考えてやれよ?」
大きなお世話なのだろうと思いつつも、少年は言わずにはいられなかった。
「何のことだ?」
案の定何もわかっていない魔王にため息をつきつつも、少年は答える。
「あいつらにとったら、お前だけが頼りなんだから、もっと傍にいてやれよ」
森の奥にある池にまでくると、少年は魔王の手を離して向きあった。
「奴らだけの方がいい」
冷たい目を少年に向ける。
「何でだよ」
「奴らには我ほどの力はない。時間はかかるだろうが、我がいない方が早く村に馴染めるだろう」
少年の疑問に、すぐに答えてくる魔王の言葉を聞き、少年は思ったよりもずっと魔王が部下達のことを考えているのだと知った。
確かに、魔王のあの力は恐ろしい。
「ところで……。これは水か?」
池の水に顔を映しながら魔王が聞く。
「当たり前だろ?」
少年が答えると、魔王はそっと水に手を触れた。
「北の大地にある水は、黒い海の水だけだ」
悲しげな声に、少年は昔聞かされた話を思い出した。
北の大地には黒い海があり、そこで魚は生きていくことはできず、魔性の者でさえその水を飲むことはできない。
「……北の大地って、どんなところだったんだ?」
魔王の横に腰をおろして尋ねると、魔王は眉間にしわを寄せる。思い出したくもないようなところなのだろう。
「不毛の地だ。空は常に厚い雲に覆われ、太陽の光りなど見えん。このように美しい水はなく、当然植物は育たぬ。地面も湿っておらず、触れればこちらの水分が奪われそうなほど乾いている」
少年には想像もできない場所だった。
空には太陽があり、時々雨が降ってくる。森の奥には綺麗な池がある。それは生まれたときから当然のようにあった。
「そんな地で我らは大地のエネルギーを食べて生きてきた。
エネルギーを奪われた大地はさらに痩せ、乾く。だが食べなければ生きてゆけん。悪循環が永遠に繰りかえされる」
魔性の者達が可哀想に思えてくるような話だった。今にも泣きそうな少年の顔に気づいた魔王は、そっと少年の頭を撫でた。
「すまん。子供に聞かせるような話ではなかった」
魔王の優しさが余計に悲しく、少年は勢いよく立ち上がると、魔王にここで待っているように伝え、森のさらに奥へ走って行った。
止める間もなく行ってしまった少年の背を見送り、魔王は再び池に自分の顔を映す。始めて見る顔だった。
「漆黒の髪。褐色の肌」
先代の魔王と同じその髪が、肌が魔王は嫌いだった。魔王であるから、魔性の者であるから、あのような地に封じ込まれてしまった。
先代の魔王も、同じような想いを抱き、南へ下ったと先代を知る魔族から聞かされた。それでも勇者は現れ、先代を封じ込めた。
一番初めはどうだったのだろうかと、封印されている間ずっと魔王は考えていた。
少年の言っていたように、世界征服を企んでいたのか、それとももっと別のことを考えていたのか。
「まあいい」
自分の終わらぬ思考を強制的に終わらせ、魔王はその場に寝転んだ。暖かい陽射しを浴び、草の絨毯に身をうずめる。魔王がずっと願っていたことだ。
眠ってしまおうかとも思ったが、少年を待たなくてはいけないと思い、どうにか目を開けておく。しばらく待つと、少年が消えた方向から人の気配がやってきた。
「待たせたな」
帰ってきた少年の手には、抱えきれないほどの木の実があった。
「それは?」
「お前さ、何も食べたことないんだろ?
だから、ほら。喰えよ」
少年が差し出してきたのは真っ赤な木の実だった。
物を口にいれ、食すという行為をしたことのない魔王は、不安げに木の実を受け取り口に入れた。
さすがに、口に入れた物を歯で砕き、飲み込むということは知っていたので、少年は一安心した。
「どうだ?」
差し出された木の実は少年の好物だったのか、目を煌かせて魔王に尋ねる。
「――始めてだ。こんな味」
「そりゃそうだろ。始めての食事なんだからよ!」
少年はあれもこれもと木の実を差し出し、魔王に食べさせた。魔王は木の実を食べる度に、始めての味だと言った。
「他の者達にも食べさせてやりたい」
「それじゃあ、一緒に採り行こうぜ」
今度は魔王と共に森の奥へと進んでいく。そこには様々な木の実があった。
「先ほどはなかったが、これなどはどうだ?」
魔王が指差している木の実はまだ熟しておらず、食べごろには程遠いものだった。
熟しているものか、食用の木の実なのか、判別がつかない魔王のために、少年は一つ一つ説明をしてやった。木の実の説明をするのと同時に、あまりとりすぎてはいけないということも教えた。
「あ。でも、魔法を使えば、あっという間に木の実くらい採れるんじゃねーの?」
そうなれば、村の食糧事情もかなり変わってくる。少年は期待に胸を膨らませたが、魔王は静かに首を横にふった。
「魔法は一見万能にも見えるが、できぬことも多い」
「知ってるさ。でも、魔法は炎、水、草、土、雷の属性があるってことも知ってるんだぞ!」
人間で魔法を使える者はそういない。いたとしても、魔性の者ほどの威力は持たない。だが、使えないからと言って、知識がないというわけではない。
「よく知っているな」
「何度か町へ行った時に、魔術師のおっちゃんが言ってたんだ」
農作物などを出荷するさいに、大人達と一緒に町へ行ったときに聞いたということを説明し、何故魔王ともあろう者が木の実を実らせることができないのか再度問う。
「……北の話をしたであろう?」
一歩も退かない少年の瞳に負け、魔王は言葉を紡ぐ。
「まともな水もなく、植物もない。空を覆う雲は雷を作り出すこともない。
そんな土地に何度も封じられているうちに、魔性の者は草、水、雷の魔法を忘れてしまった」
魔性の者達は本能とも言える部分で魔法を使うため、北の大地で使えぬ魔法は本能から消え去ってしまった。
丘を地面の奥深くへ押し込むことも、土で家を作りだすこともできる魔王だが、コップ一杯の水を出すことはできない。
「そうなんだ……。
だったらさ、ずっとこの村にいれば、いつか使えるようになるかもな」
少年なりの励ましだった。
「そうだな。さあ、帰ろう」
日が落ち始め、森に長くいるべきではないと判断した魔王は、少年の手を取った。
辺りが暗くなる前にと、急ぎ足で歩く魔王の姿に、少年は父親の姿を重ねた。とても頼りない父親だとほくそ笑みながらも、少年は魔王に手を引かれているのが嬉しかった。
「お前達……。これはなんだ?」
森を抜けた瞬間、魔王は聞いた。
見れば、魔性の者達が住むと言っていた草原には多くの遊具があった。全て土で作られたそれは、紛れもなく魔性の者達が作り出したものなのだろう。しかも、そこには村の子供達が集まり、楽しそうに遊んでいた。
「す、すみません……!」
魔王の言葉を聞いた魔族は慌てて頭を下げる。
「謝る必要などない。だが……。一体何があったのだ?」
それは少年も知りたいことだった。魔王と少年が森へ行ったときには、子供達は親と一緒に魔性の者達のことを遠巻きに見ていた。だが今ではどうだろう。子供達は少しの怯えも見せていない。
「実は、魔王様が少年と共に森へ行かれた後、私達は人間の村に少しでも近づけようと思いまして、いくつか人間のものを土で作ってみたのです」
魔王ほどの力を持たぬ魔性の者達の力では、小さなものを作りだすので精一杯なので、案山子や柵を作っていたらしい。それを見ていた子供達は次第に瞳を輝かせていった。
一生に一度か二度見れればいいほうだとされていた魔法が、目の前で何度も行われていれば、当然そうなるだろう。
子供達の輝く瞳に気づいた魔族が、近くにいた仲間達と力をあわせ、一つの遊具を作り出した。
北の大地に遊具などなかったが、人間の世界の絵が描かれた本はあった。そこから魔性の者達は人間の世界を知り、遊具を知ったのだ。
魔法で作られた遊具に、子供が一人、また一人と近づいていき、それを見た魔所の者達は新たな遊具を作り出す。それを何度も繰りかえすうちに、現在のような光景ができあがったと言う。
大人よりも警戒心が強いが、大人よりも順応性の高い子供はあっという間に魔性の者達に慣れた。魔族と共に遊び、魔獣と戯れる。大人達はそれを不安げに見守ることしかできない。
日も暮れ始め、親がどうにか子供を呼びもそろうとしているが、子供達は楽しい遊びをやめる気はない。
「子供達よ。我らは明日もいる。遊具もある。だから今宵は母の元へ帰るがいい」
魔王の言葉を聞き、魔性の者達も積極的に子供達を家へ帰らせる。この様子なら、魔性の者が村へ馴染むのも、案外あっという間かもしれないと少年が考えていると、魔王に背中を押された。
「少年も帰るがいい」
見れば、少年の両親がいた。
「……明日」
魔王は首を傾げる。
「また明日な」
少年は手を大きくふり、両親のもとへ走っていく。
「明日も遊んでねー」
「バイバーイ」
「お姉ちゃんありがとう!」
子供達も親の横から大きな声で言う。始めての言葉だったが、それに返すべき言葉は知っていた。
「ああ。また明日」
魔王は小さく手をふり、魔性の者達は大きく手を振り返した。
勇者の捜索は難航していた。
魔性の者達が南下しているとの情報はとある位置から消えていたが、それでも油断はできない。王国の周りには難民が溢れ、誰もが助けを求めていた。
難民の女達に勇者らしき子供はいないかと尋ねて回ったが、勇者はおろか、金髪碧眼の子供も生まれていないという。
妊娠している女は優先的に王国内へ招き入れているが、魔王と戦えるようになるまでには長い時間がかかる。それまで王国がもつという保障はどこにもない。
「神は我らを見放したのだろうか……」
王は一向に見つからず、生まれない勇者を思い、ため息をついてばかりいた。世界の終わりも近いのだろうと思う毎日に、王は日に日に体調を崩していく。
「王様。地方からの入荷がない今の状態では、近いうちに食料がなくなります」
大臣の報告も耳を通り抜ける。例え通り抜けていなかったとしても、解決策などない。
息子に王位を譲り、一刻も早く隠居生活をしたいと望む王だが、まだ息子は帝王学を学んでいる最中なので、王位継承などできるわけがない・
「父上! 勇者が、勇者が見つかったとの報告が……!」
本日何度目になるかわからないため息をついていた王に、これ以上ない朗報が届いた。
「ど、どこだ? 産まれたのか?」
報告しにきた息子に掴みかかる。いかに余裕がなかったのかがうかがえた。
「今、兵士が連れてきています」
「ただいま勇者様を連れてまいりました!」
敬礼する兵士の横には、一人の少年がいた。
「これが……ゆ、うしゃ」
思わず敬称をつけ忘れてしまうほど、勇者はみすぼらしい姿だった。
髪は金髪なのかどうかわからぬほどくすんでおり、体全体はホコリっぽく、酷い悪臭がした。そんな姿だというのに、その瞳は美しく輝いており、目の下には痣があった。
「文句あんなら帰るぜ」
王の前とは思えぬほどの言葉づかいの勇者は、早々に出て行こうとする。
「貴様! 王様になんという態度を……」
「はあ?」
兵士が慌てて勇者の肩を掴み、言葉づかいを咎めるが、勇者は態度を改めない。
「あんたら、何か勘違いしてんじゃねぇの?」
子供とは思えぬほどの威圧感で勇者は言う。
「オレは勇者なんだろ? 魔王を封じることができる唯一の存在だ。いくらでも代わりがいるような人間とは違うんだよ」
悔しいが、誰も何も言い返すことができなかった。勇者がいなければ魔王を封じることはできない。
「とりあえず……。召使に湯を張らせますので、ゆっくりおつかりください」
予想外のことが起こりすぎ、王の許容範囲を越えてしまったため、一度冷静になるため、勇者に席をはずしてもらうことにした。子供らしからぬ勇者はそのことを察したとか、特に何かを言うことなく召使に連れられて行った。
「……本当に勇者様なのか?」
容姿を見ればすぐに勇者とわかると思っていたが、あの勇者の容姿を見ても、勇者だと断定できない。いや、勇者だと思いたくない。
「おそらく」
勇者を連れてきた兵士が答える。
「彼は孤児でした。知識もなく、勇者という存在は知っていましたが、勇者の容姿を知りませんでした」
孤児だというのは、予想できていた言葉だった。そうでないのならば、あの姿は説明できない。
「父上。あのような者に、世界を託すのですか?」
息子の言葉に、王は唸る。確かに、あの勇者に世界を託すというのは不安以外のなにものでもない。
「だが、あの人しかいないのだ」
勇者が魔王を封印するとき、常に勇者は一人だった。そのため、誰一人として、魔王を封印する術を知らないのだ。
「唯一幸いだったのは、勇者様がある程度お年を取られていたということか……」
勇者が産まれたばかりの幼子だった場合にかかる時間よりかは、魔王を封印するための時間は短縮されているはず。
そうでも思わなければ、これからの不安で、王は胃に穴が開きそうな思いだった。
「乗馬、剣術を始めとした、戦いの分野の講師をお招きしろ。勇者様には多くを学んでもらわなくては」
「お言葉ですが、あのお方が黙って従ってくださるとは思いません」
失礼を承知で言った兵士の言葉は正しく、王も勇者が黙って従うとは思えなかった。
「王様……勇者様からの伝言でございます」
勇者を風呂にいれている召使の一人が静かに現れた。
「剣術、体術、馬術、魔術において、最高峰の講師を用意せよとのことです」
自分がいない間に、講師の話がでると勇者は見通していた。その事実に、王も息子も、兵士も唖然とした。決して勇者を従わせることはできず、勇者を出し抜くことなどできない。
「……了解したと、伝えてくれ」
「かしこまりました」
召使は現れたときと同じく、静かにさがった。
「では、そのように手配してくれ」
「……承知いたしました」
兵士に講師の収集を任せ、王はゆっくり椅子に腰かけた。
ようやく重荷が降ろせたような気もするし、重荷が増えたような気もした。
見たところ、勇者には体力も知恵もありそうではあったが、実際に魔王に立ち向かうための教育を明日から始めたとして、どれほどの時間がかかるのだろうか。
「よお。眉間にしわ寄せてんじゃねーよ」
民のこれからと、魔王討伐までの間の勇者のことを考えていた王に、できることならば聞きたくない声が聞こえてきた。
「お湯加減はどうでしたか?」
「ああ。最高だったぜ? 産まれて始めての風呂だ」
始めての入浴を終えた勇者は、伝承通りの美しい金糸の髪をもっていた。先ほどまでの悪臭も、ホコリっぽさもそこにはなく、あるのは大人以上に世間の汚さと辛さを知った生意気な子供の顔だった。
「で、講師の用意はできたか?」
「いえ、今日のところはゆっくりなさってください」
「はあ? んな悠長なことを言ってる場合なのか?
すぐに呼べ。すぐに稽古を始める」
勇者の体を心配して言った言葉だというのに、勇者は余計なことをと言わんばかりの顔をして告げる。
「しかし……」
「しかしも、お菓子もねぇ!
オレ様が今日からっつったら、今日からなんだよ」
勇者は自分の立ち位置を正確に理解している。理解しているがために、自分の意見を無理にでも通す。
「わかりました……」
勇者の意見を覆すことなどできない王は、近くの兵士に今すぐ講師を連れてくるように命じた。
「講師の方がこられるまで、自室で待機していてください」
召使を呼び、勇者を用意した自室へ連れていかせる。
「魔王を倒すまで、短い間だが、世話になるぜ」
そう、勇者は真の意味で自分の立ち位置を正確に、理解している。魔王さえ封じてしまえば、勇者など用済みになるということを、勇者は知っている。
王へ向けられた笑みは、あざ笑うかのようなもので、この世にあるどんなものよりも邪悪に見えた。
「こちらが勇者様のお部屋になります」
無駄に長い廊下を通り、ようやくついた勇者の自室は広く、美しい部屋だった。
「……下がれ」
「かしこまりました。講師の方がおこしになられましたらお呼びに参ります」
静かに召使がさがったあと、扉は閉められ、広い部屋の中で勇者は一人になった。
「天と地ほどの差だな」
小さく呟く。ほんの数時間前まで、人の物を盗み、ゴミ箱をあさるような生活をしていたとは思えない。むしろ、今のこの状況が信じられない。
「あー。オレ、王と話したのか。んで、これから魔王を倒すために色々教えられるのか」
明らかに大きすぎるベットに身を沈め、夢見心地の気分を味わう。
少なくとも、魔王を封じるまでは寝る場所と食べるものには困らない。
勇者はベットから身を降ろし、今までよく見たことのなかった自分の顔を鏡に映して見る。光りを反射して輝く金の髪と、空の色にも似た碧の目がある。目もとには不思議な痣が確かにあり、これが勇者として王を認めさせたもの。
「こんなもののおかげか」
馬鹿馬鹿しいと勇者は感じる。
今まで自分の力だけを信じて生きてきた。汚いことにも手を染め、いつか大きな報いがくると誰かになじられても、やめることはなかった。
「報いねぇ……」
ニヤリと笑うと、鏡の中の勇者も笑う。
「勇者様。剣術の講師様がおこしになられました」
扉の向こうから召使の声がする。
「わかった」
勇者は扉を開け、召使に連れられて訓練場に出る。そこで待っていたのは筋骨隆々の男だった。見るからに強そうな男の姿に、勇者は満足気に笑う。
「手加減はいらん。オレ様を強くしろ」
勇者だからと言って、ご機嫌をとられるのは嫌だと勇者は言い、召使が持ってきた剣を手に取った。
生まれて始めて持った剣の重さは、予想以上の物だったが、けっして持てないほどの重さではなかった。
「無論。そのつもりだ。だが、始めは木刀がいいだろう」
未経験者に真剣を持たせるわけにはいかないと言う講師に向けて、勇者は剣を突き出した。剣が講師の顔面を突き刺す寸前に、講師が己の剣で勇者の剣を払った。
「……何のつもりだ」
「まどろっこしい。木刀などいらん」
講師にものを言わす隙を与えぬよう、勇者は何度も剣を振り回す。
「甘いわっ!」
勇者の剣を全て受け止めた講師は一喝した。
「まず、持ち方がなってない!」
講師は勇者の手に己の手を沿え、正しい剣の持ち方を教えた。その後、踏み込みの甘さなどを指摘するものの、木刀で稽古をつけるという話は持ち出さなかった。
どうやら、勇者の性格上、始めから真剣でやったほうが上達が早いと見極めたようだ。
「オレの稽古は、基本的に実践だ。実践に勝る稽古などない。よって、普段から己を磨くことを忘れるな」
「わかっている」
基本的なことを教わった勇者は何度も講師へ向かって斬りかかった。講師が何よりも恐れたのは、まだ少年と言えるはずの勇者が、迷わず急所を狙ってくるということだった。
常に刃の切先は心臓を向いており、剣に迷いはなかった。
「お前の剣は、殺しの剣でしかない。戦いの剣と、殺しの剣は違う」
勇者の剣を受けながら講師が言う。
講師の言っている意味がわからず、剣を止めた勇者を講師はじっと見て、自分で考えろと告げた。
その後も剣の稽古は続けられ、終わったのは日が暮れた後、勇者が疲労で倒れた時だった。
「根性は合格。気合も合格。立派な傭兵になれそうな逸材だ」
講師は勇者を兵士に預けて言った。
明日からは時間を決めて、一日に複数の術を学ぶことになるというのに、今のような状態で大丈夫なのだろうかと兵士は不安にかられた。
「んじゃ、また明日」
講師は去り、勇者は自室へと戻された。
勇者が寝ている間に、城では大きな会議が開かれた。議題はもちろん勇者について。
「ようやく現れた勇者が、あのような者とは……」
「だが、勇者にしか封印は行えないというのも、事実」
大臣が嘆き、ご意見番が意見する。
勇者の横暴な態度は許されるべきものではないが、勇者を追い出すわけにはいかない。どうにか勇者を従わせようと議論が続けられたが、結局勇者を従わせる術などなかった。
「先代の勇者様は、お優しく、公明正大なお方だったと、記録されているというのに……」
「新たな勇者様もそのような方と信じて疑っていなかった……。というのが、いけなかったのでしょうか」
「いや、勇者と言えば、人々に憧れられる至高の存在。あのような振る舞いがおかしいのです」
いつしか、議題は過去の勇者の栄光に変わった。
優しく、偉大な勇者様。その言葉は輝きに満ちているというのに、今現在城にいる勇者は鈍い光を放っている。
「封印の方法さえわかれば……」
「あのような者を城に入れずにすんだのに……ってか?」
言葉を続けたのは、いつの間にか扉の前にいた勇者だった。
「勇者様……!」
「オレ様に内緒で会議か? まあ、確かに本人の前で悪口を言うわけにもいかねぇよな」
あざ笑い、会議を開いていた面々に背を向ける。
「待ってください!」
「安心しろ。出ていきゃしねーよ。明日からはスケジュールが組まれるんだろ? オレ様は寝る」
勇者は自室へ戻り、ベットに顔をうずめ、笑い声をあげた。
「そうさ。オレがいなけりゃ、魔王は封じれねぇ!」
会議をしているときの、大臣達の嫌悪に満ちた顔が忘れられない。勇者が必要だと言われた時の屈辱の顔が忘れられない。
「あと何年、ここにいるんだろうな」
勇者は目を閉じた。柔らかいベットが体に合わず、目が覚めてしまったということを忘れ、眠りの世界へゆっくりと堕ちていった。
朝は自然と目が覚める。まだ暗いうちに目を覚まし、人々が置き出すころには、人目につかぬ場所に移動していた勇者は、あまり人に誇ることのできない週間が、このような形で役に立つとは思っていなかった。
「さて、素振りでもするか」
昨夜、起きたときにこっそりと盗っておいた木刀を手に、勇者は素振りを始めた。幸い、無駄に広い室内なので、素振りをしても何の問題もない。
気がすむまで素振りをすると、勇者は部屋に備え付けられているシャワールームで汗を流した。
昨日の稽古のせいか、体中の筋肉が痛い。だが、それは弱みに繋がるので、体の痛みを顔に出すことはしない。
弱肉強食の世界で生きてきた勇者にとっては、小さな弱みすら命にかかわる。
「勇者様。朝食の用意ができました」
シャワールームから勇者が出てくると、召使の声が聞こえてきた。
「ここへ持ってこい。これからもずっとだ」
「……かしこまりました」
よく訓練された召使は、反論することなくさがる。
召使が戻ってくる前に、勇者は木刀を隠す。
「こちらが本日のメニューになっております。
何かございましたら、近くを歩いている召使にお申し付けください」
朝食と、一枚の手紙を勇者の部屋に置き、召使は再び去っていく。
「そういえば、昨日は結局何も食べなかったな」
三日程度ならば、食べないのが当たり前となっていた勇者は、昨日食事をしていないことを思い出し、朝食に手をつけた。
城の外では食料の流通が制限されていることくらい、勇者は知っていたため、自分の目の前に置かれている豪華な食事に笑いが止まらない。
「手紙……?
ああ、今日の予定か」
そえられた手紙を読むと、そこにはこれからの予定が書かれていた。基本的には、一日のほとんどを講師とすごし、残りの時間は自室に待機とかかれていた。つまり、城の方も勇者と接触する気はないということだ。
勇者は城の対応に眉をひそめることもなく、今日の予定を頭の中に入れる。
体術、馬術、剣術、魔術と、徐々にハードになっていき、最後はオマケ程度になるように上手く組まれていた。魔術など、その素質があるのかどうかも怪しいと思っているのだろう。
「あ、そろそろ体術始まんじゃねーか」
よく見ると、あと三十分程度で体術の授業が始まると書いてあった。命令されることは嫌いだが、自分から教えを乞うているので、特に文句も言わずに勇者は手早く用意をして、ご丁寧に手紙と同封されていた城の見取り図を見て、稽古部屋へ足を運ぶ。
「お主が勇者か」
剣術の講師のような者を想像していた勇者は、体術の講師を見て目を丸くした。そこにいたのは枯れ木のように細い老人だった。
老人だからと言って、弱いということはないと知っている勇者は、講師を試すということを兼ねて、殴りかかった。
「ほっほほ。若いのぉ」
講師は軽く勇者の拳を受けた。小さな体とはいえ、力にはそこそこの自信があった勇者はそれなりにショックを受けた。
「さ、稽古を始めるかの」
剣術とは違い、体術の稽古はゆっくりと基礎から教えられた。
講師に対してはあまり生意気な口を聞かないためか、勇者は講師とは上手く交友関係を築き上げていた。
馬術では馬の気持ちになるということで、馬の世話から教えられたが、勇者はそれを楽しそうに行い、文句を言わない。魔術の授業は難しい単語ばかり出てくるので、勇者はすぐに暴れるだろうと誰もが思っていたが、勇者は真剣に講師の話しを聞き、知識を吸収していた。
勇者からしてみれば、当然の態度だったのだが、王やその息子からすればその態度が不思議であり、不服でならない。
「おい、貴様はどうして父上には偉そうなのに、講師には従順なのだ」
稽古を一通り終え、夕食をとっている勇者の部屋に、ノックもなしに入ってきた王子は不躾に言った。
「……そんなもの、決まっているだろ」
ノックをしなかったことを勇者は特に咎めもせず、呆れたように王子に言った。
「貴様らはオレを必要としている。オレは講師達を必要としている。それだけのことだ」
「父上の方が位は高いのだぞ!」
「知るか」
勇者にとって大切なのは、必要としているかどうかだけ。
王達は勇者がいなければ困る。その弱みを使うのは当然だ。逆に、勇者は講師達がいなければ魔王を倒すことなどできないという弱みがある。弱みを握られているのだから、従順になるのは当然なのだ。
「わかったら出ていけ。オレ様は明日も早い」
王子は納得していなかったが、これ以上勇者を刺激して、城を出て行かれては困るので、大人しく勇者の部屋から出て行った。
魔王が村で人間達と共存するようになって、約一年が過ぎた。
始めは魔性の者達に怯えていた人々も、子供達から話を聞き、彼らの様子を見ているうちに打ち解けるようになってきた。
農作物の種を貰い、喜ぶ魔族達。それを上手く育てられず、村の人々に教えを乞う。農作物が大きな実をつければ、手助けをしてくれた人々にお礼をして周った。
家畜の世話を手伝わせてあげ、その家畜が死んでしまったときは泣いた。
水をいつやればいいのか、何をすれば家畜は喜ぶのか、魔性の者達は何も知らなかったが、根気よく教えれば、いつも笑顔でお礼をいい、そして覚えた。
魔物の力は土木作業に役立った。
「魔王さーん。うちで採れたんだけど食べる?」
「いいのか?」
「もちろん」
美味しそうに熟れた実を貰い、魔王は礼を言って実を口に入れた。
「美味しい」
「あなた達は何を食べても美味しいっていうわね」
魔王に実を渡したおばさんは笑い、収穫作業に戻る。魔王が手伝おうかと尋ねると、笑顔を崩さずに断った。
「今日は例の日でしょ?」
「そうであった」
魔王は足を少年の家の方へと進めた。
「遅いぞー!」
「すまん」
家の前で立っていた少年に謝罪をすると、少年は笑って魔王の口もとを指差した。
「お前、またトマト貰っただろ? 口についてるぞ」
少年に笑われ、魔王は口もとを拭った。
「んじゃ、行くか」
少年は一年前と変わらず魔王の手を掴んで歩く。三日に一度はこうして少年が魔王の手を掴んで歩く光景が村で見られる。
特に何をするというわけではないのだが、村の様子を見て周ったり、仕事をしている魔性の者達をねぎらったりしている。
「よお。今日はどこへ行くんだ?」
「考えてねー」
「魔王さんも大変ねぇ」
「オレが面倒みてんだ!」
兄が元気な弟に付き合ってやっているような図に見えるため、少年と魔王はよくからかわれた。だが、魔王の方は何も反応を返さず、むしろ村の人と交流を持てることを喜んでいる。そのため、いつも言葉を返すのは少年であり、精神的に疲れるのも少年だった。
「どうしたのだ?」
魔王が声をかけたのは、一人の村人だった。
村人はよく熟れた実を眺めながらため息をついていた。
「あ……いや。何でもないです」
魔性の者達と共存するようになって一年が経ったとはいえ、まだ魔王に慣れていない者も多い。そんな者に会ったとき、魔王は悲しげな顔一つせず、黙ってその場を離れる。
「……今日は森に行くか」
「わかった」
かける声がみつからず、結局少年がかけれた言葉は他愛もない言葉だけだった。
森へ向かって歩いた。村の者には秘密でやっていることが二人にはあった。
「今日こそは成功させるぞ!」
「そう急がずともよいだろう」
始めて会ったあの日、共にきた池の前に魔王は座り、目を閉じた。
目を閉じた魔王には、どこか近寄りがたい雰囲気で、少年はいつまで経ってもその雰囲気が苦手だった。それでも、少年は魔王の傍を離れず、隣に腰をおろした。
魔王は長い時間、目を閉じたまま微動だにせず、少年も同じく微動だにしなかった。どちらかといえば活発であり、騒がしい部類に入る少年にとって、それは苦痛にも似たものだったが、魔王の邪魔をせぬようにじっと我慢した。
「――――」
突然、魔王の口が開き、呪文を紡ぎ始めた。いつも使う、土や火を操る呪文とは全く別の呪文に、少年は心を躍らせた。
草木は揺れ、水面は揺らぐ。呪文の終わりと共に、それらはピタリと止まった。
「……ダメ、なのか?」
落胆した声で少年が呟くと、池の水面が盛り上がり、また元の穏やかな水面に戻った。
「成功だ……。ほんのちびっとだったけど、水を操ったぞ!」
喜びのあまり飛びつかれた魔王は、バランスを崩してその場に倒れた。
「あの程度……。まだまだ実践は不可能だ」
長い時の中で、失われてしまった水の魔法を使えるようにと、二人は度々池で訓練をしていたのだ。水の持つ力と魔力の波長をあわせるため、長い時間瞑想し、波長にあわせた呪文を掴み取る。たったそれだけのことをするのに、一年かかった。
「でも、コツは掴んだんだろ?」
「まあ、な」
水の魔法が使えるようになれば、干ばつが村を襲っても、村の者を助けることができる。そう言い出したのは魔王だった。少年は木の実をすぐにでも実のらせる魔法がいいと言い張ったのだが、魔法で実のらせた物は、自然に育ったものよりも味が劣ると言って却下した。
「これからは、長い時間瞑想せずにすみそうだ」
長い時間の瞑想は、魔王の体にも負担をかけていた。
「マジで? やった!」
「別に我を待たずともよかったのだぞ?」
喜ぶ少年に、魔王は言う。
「お前に何かあった時どーすんだよ」
少年は軽く言った。誰もいない森の奥で、万が一にでも魔力が暴走してしまったら。水にのまれてしまったら。あまりにも悲しすぎるからと少年は優しく笑う。
「そのようなヘマはせん」
「わからねぇだろ」
二人は立ち上がり、村の方へ足を向けた。まだ日は落ちていないが、休息も必要なのだ。帰り道の木の実を採りながら歩く。
「思えば、一年はあっと言う間にすぎたな」
「爺みてぇなこと言うなよ」
生きた年数でいうならば、村一番の爺さんよりも長生きしているのだが、魔王はそのことを言っても無駄だとわかっているため、あえてそこには触れずに話を進めた。
「我も様々なことを学んだ」
土を耕し、種を植え、水をやり、育てた作物の美味さを知った。
「家畜に餌をやることは知ってたけどな」
基本的なことは何も知らなかったというのに、家畜に餌をやってもいいかと魔王が尋ねたときは驚いた。
「生き物は何かを食べねば生きてゆけん。そのくらいは知っている」
尋ねた瞬間、隣にいた少年に爆笑されたことが忘れられないのか、魔王は声色を鈍らせる。
「あとあれだ。お前が始めて風の魔法を使ったとき。あれはすごかったな!」
まだ村にきて間もないころ、村に嵐が迫ってきていた。魔王の騒動で、その年は王国に行くことを諦めていた村人達だったが、嵐にこられてしまっては冬の食料の確保も怪しくなる。
神に祈ることしかできなかった村人とは違い、少年は魔王のところへ行った。用件はただ一つ。嵐を何とかすることはできないだろうかということ。
必死の形相で自分のもとへ来た少年を、魔王は無下には扱わず、静かに頷いた。
迫り来る生ぬるい風と、暗雲を睨みつけた魔王は、丘を平地にしたときのように手を突き出し、呪文を唱え、風を操り、暗雲を消しさった。
涼しい顔で村を救った魔王だが、礼を言う少年の頭を撫で、家へ戻って行く魔王の足はどこかふらついていた。だから少年は密かに、あの時の魔王はその場に倒れこみたいくらい疲れていたのだろうと思っている。
「あれを感謝してる奴は多いと思うぜ?」
「助けを求められた。ならば助けるしかあるまい」
一年も共にいれば、昔を懐かしむような話もできる。魔王も少年も、そうあれたことが嬉しかった。
「あ、帰ってきたぞ」
二人が村へ帰ると、なにやら広場に人が集まっていた。
「何だ?」
手招きされ、近づくと、そこには作物が山盛りに乗せられた荷車があった。
「昨年は、王国へ謙譲できるような状況ではなかった。
だが、今年は違う。この作物を王国へ謙譲し、魔王さんのことも言ってくるつもりだ」
今まで村から作物を出荷していた男が、胸を叩いて言う。
魔王は自分の何を言うのだろうと首を傾げる。魔王の鈍さは村の者ならば誰もが知っていたため、簡単に説明してくれた。
「魔王さん達と、共存してますって言うんだ。そうすりゃ、こんな小さな村に閉じこもってる必要もなくなる」
「王国の市にだっていけるんだよ」
市の活気について説明する村人の表情からは、魔王が村から出て行けばいいなどというものは微塵もなく、魔性の者達にも人間と同じ喜びを味あわせてやりたいと思うものばかりだった。
「問題ないかな?」
村の者達は、魔王の了承を得るため、わざわざ魔王が帰ってくるのを待ってくれていたのだ。
「……無論だ」
村の者達の気持ちが嬉しかった。魔王は運び役の男に少しの間待つように頼み、一体の魔物に声をかけた。
「我らのことを話すと言うのならば、我らに戦いの意思がないことも示さねばならん。
荷とあの者を乗せて飛べるな?」
魔物は大きな鳥型で、魔王の質問に大きく頷いた。
「こやつが荷を運ぶ。お主は背に乗るといい」
作物が落ちぬように布で包み、荷台に紐を通し、魔物の足にくくりつけた。
「お、落とさないでくれよ……?」
魔物に乗ること事態は恐れていないが、空を飛ぶとなれば話は別とばかりに男は怯えた。間性の者達からすれば、空は飛ぶためにあるものだが、人間からすれば空は天候を読むためのものでしかない。
「安心せよ。いざとなれば、命に代えてもお主を守らせる」
その言葉に、男は気を落ちつけた。命に代えても、などという危険な状況には陥りたくないが、心は安らぐ。
「距離は?」
「ずっと南だ」
村人の一人が地面に北の大地と、今いる村と、王国を描いた。
「だいたいこんなもんかな。いつもは大体片道三ヵ月くらいだ」
「そうか……。ならば、一ヶ月もすればつくだろう」
鳥型ではあるが、夜目もきくため暗闇の中でも飛べるということと、地上に降りれば自分で食事を探すということを男に告げた。
「わかった。んじゃ、帰ってくるのは二ヵ月後か」
男が妻から携帯食を受け取ると、魔物は羽ばたき、大空へと飛びたった。魔物の背に乗っていた男は小さく悲鳴を上げたが、地上から魔物と男を見送った村人達は、空を飛んでいる男を羨ましく思った。
「オレも空、飛んでみてぇ」
ポツリと呟いた少年に、魔王は望むのならばと答えた。
「約束だぞ!」
魔王の返答を聞いた少年は小指を出した。
「我は約束を違えるような真似はせん」
少年の小指に指をからめ、同盟を組んだ時と同じように手をふった。
講師の言うことだけは素直に聞き入れていたおかげか、勇者の腕は異例とも言える速さで上達していった。
「オレ様のことが妬ましい……って顔してるぜ」
人の神経を逆なでするような笑みを浮かべ、勇者は王子を挑発する。先代の勇者とは全く違う勇者を城の者は疎ましく思い、召使以外は勇者のもとを訪れず、話かけるようなマネもしない。いつしか、勇者の楽しみは魔王を倒すための稽古と、妬ましげに勇者を見る王子をからかうことになっていた。
「……別に」
始めのうちは何かしら言い返してきたものの、最近では耐性がついてきたのか、多少のことでは言い返してこなくなってしまった。攻め方を変えなくてはならないと勇者は考えている。
「お前のお父様に言っとけよ。城周りにいる奴らにろくな食料を与えられねぇくせに、自分たちばっかりいいもん喰ってんじゃねーよってな」
王国の食料が底をつきつつあることは勇者も知っている。その証拠に、現時点において一番頂点に君臨しているはずの勇者の食事が貧相になってきている。
それでも孤児だった勇者からすれば、十分豪勢な食事なのだが。
「承知した」
苛立ちを隠せない口調の王子は勇者に背を向け去っていく。一人残された勇者は、次の系子が始まるまでの時間をどうするか考えた。
木刀を振るうもよし、王から貰った馬の様子を見に行くもよしなのだが、どれもイマイチ気が乗らずにいた。
「とっとと魔王と戦いてぇな」
魔王を倒せば、この生活も終わると知っているが、好戦的な性格をしているため、勇者は魔王との戦いを心待ちにしていた。
ようやく使えるようになった火の魔法を使い、指先に小さな火を灯し考える。一体いつになったら魔王と戦えるほどの力を得ることができるのか。
「講師にも勝てねぇしな……」
人間にも勝てないというのに、魔王に勝てるわけがない。戦うことは好きだが、死にたいとは思っていない。
とりあえず、次の稽古を受けるために、広場に移動していると、外の気配が騒がしくなっていることに気づいた。
城は高い塀に囲まれているため、王国の外どころか、町の様子すらわからない。勇者は好奇心がおもむくままに塀の外へと繋がる扉へ向かった。
「勇者様。どちらへ?」
「どこでもいいだろ」
門番は外の気配にも気づかないマヌケだった。勇者は門番を押しのけ外へ出る。稽古の時間に遅れるかもしれないが、特に心配はしなかった。
町は勇者の想像どおり、飢えに苦しんでいた。だが、勇者が感じたものは飢えではない。騒がしい気配の方へと足を進めると、町からでる扉の向こう側から騒がしさがやってきているということがわかった。
「通せ」
一言、門番に命じると、門番は扉を開けた。勇者の命令は絶対だということをよく知っているのだ。
扉の向こう側は町とは比べ物にならないほど飢えていた。近くの木の実は採りつくし、動物達は人間の多さから近づいてこない。魔物の恐怖に怯えている人々は町から離れることを嫌う。
「まだ向こうか」
騒がしいというのが、耳でも感じ取れるようになってきた。
足を勧めた勇者の目に、魔物が映った。ただの魔物ではない。その魔物は人間と共にいた。魔物と共にいる人間は駆けつけた兵士と何やら会話をしている。
「だから、王に会わせてくれ!」
「そのようなことができるわけないであろう」
「何の話だ?」
勇者は二人の間に割り込み、魔物に一度目を向ける。話に聞いているような獣ではないことに多少の驚きを感じつつも、敵であることには変わりない。
「勇者様……。いえ、この者が村から作物を謙譲と、魔性の者との共存について王に話したいと申しまして……」
勇者は魔性の者との共存と言う言葉に驚き、村の男は勇者の存在に驚いた。魔王がきた時は勇者の存在を願ったが、魔性の者と共存している今となっては、勇者の存在は恐ろしいものでもある。
「共存だと?」
勇者にしてみれば、あまり好ましくないことだ。もしも王が魔性の者との共存を承知してしまえば、今のような生活は失われるだけではなく、魔王と戦うという楽しみも奪われてしまう。
幸いなことに、村の男と話している兵士は共存に乗り気ではなかった。いや、三人の様子を遠巻きに見ている者達も、共存の話には乗り気ではない。ただ、そうしないと殺されてしまうのではないかという恐怖心がある。
「オレ様のような幼い勇者では不安か?」
勇者は考えた。どうすれば、魔性の者との共存をぶち壊すことができるだろうかと。そして答えを出した。
「……そのようなことは言っていません」
村の男は答える。
「魔性の者に脅されているのだろ? 王国に行き、友好的であることを説明してこいと」
勇者は魔物の様子からも、男が脅されているわけではないとわかっていたが、あえて人々の不安をあおるような言い方をした。
「違う! 魔王さんは本当に……」
「大丈夫だ。まだ力不足な所はあるが、このオレ様が必ず、必ずお前の村を救ってやる」
今まで見せたこともないような優しい笑みを浮かべ、勇者は鞘から剣を抜いた。抜かれた剣の切先は魔物へ向けられる。
「手始めに、お前を監視しているこの魔物を、殺してやる」
殺気を感じとった魔物は、くちばしで男を摘むと、大空へ飛んだ。
「逃がすものか!」
勇者は呪文を唱え、火の玉を魔物にぶつける。威力はあまりないが、翼にあてれば、鳥型の魔物はバランスを崩す。
「勇者様が魔物を……!」
「さすがだ!」
人々は小さな勇者に歓声を上げた。勇者は魔物が落ちた方へ向かって走りだす。
「勇者様、どこへ!」
兵士が叫ぶが、勇者は聞く耳をもたない。
手を汚したことは何度もある。もちろん、人を傷つけたこともある。だが、魔物との戦いは始めてだ。勇者は血肉を湧き躍らせていた。
「あの鳥、頭いいな……」
村の男を魔物が連れ去れなければ、男は尋問にかけられていただろう。最悪の場合、拷問されるということもありえない話ではない。
走っていた勇者の前に、先ほどの魔物が現れた。そのくちばしに男の姿はない。魔物はすぐにきびすをかえして別方向に飛ぶ。
男を逃がすための誘導だと気づきつつも、勇者はそれに乗った。勇者は魔性の者達の情報が知りたいわけではない。欲しいのは、魔物を倒したという実績を、地肉が踊る戦い。
「何度でも落としてやるさ」
勇者は再び呪文を唱え、火の玉を魔物へ向けて飛ばす。だが、魔物も一度くらった技をそう何度も受けはしない。翼にはあたらぬように上手く避ける。だが、足に当たり、胴体に当たり、確実に魔物の体力はそがれていく。
「さっさとオレ様の剣の錆びになれ!」
剣技を使いたくてうずうずしている勇者をよそに、魔物は粘った。少しでも時間をかせぐために。敬愛する魔王様の命を違えることのないように。
「ああ。ようやくか」
とうとう魔物の体が地上に落ちた。
「まな板の上の鯉。って言葉がどっかの国にあるらしい。まさにそれだよ」
口もとをあげ、勇者は魔物の首を落とした。
「血は赤いのか……。ああ、後で兵士にでも取りにこさせるか」
大きな体を見て、十数人分程度の食事にはなるだろうと考えた勇者は一人呟き、討ち取った証拠に足を切り取り町へと足を向けた。
「今頃、あの男は森の中でも走ってるんだろうな」
勇者が口に出した通り、男は人目につかぬよう、森の中を走っていた。
「ま、おう、さん……!」
遅かれ早かれ、魔物が殺されるということを知っている男は、村へ急いだ。魔王に伝えなければならない。すでに勇者は見つかっているということ。魔物は男の命を救ってくれたこと。そして、勇者は話し合いをするような相手ではないということを。
「まだ子供だった。成人するくらいまでは魔王討伐なんてしないだろうけど……」
それでも急がなければならない。いつ追手がきてもおかしくないのだから。
男は泣いた。一ヶ月を共に過ごした友を見殺しにしなければいけない。そして、友を救う力は自分にないと知っていた。
男は携帯食を荷車と一緒に城の外へ置いてきてしまったことに気づいた。だが、幸いにも城から離れた場所は人の手が届かないため、木の実が多くしげっていた。当然、動物達も多く生息していたため、食に欠くことはなかった。ただし、追手がきているかもしれないという心労は大きく、一日に進める距離というのはそう長い距離ではなかった。
そんな進み方をしていれば、当然時間がかかる。村の方では一向に帰ってこない男を心配していた。
魔性の者達をまだ信用できていない者は、魔物が男を喰ったに違いないと言いふらしたが、ほとんどの者が魔物を信じていたため、魔性の者達が非難を浴びることはなかった。
「……心配だ」
「きっと王国で楽しくやってんだよ」
軽く返す少年だが、心の中では男を心配していた。
「帰ってきた!」
村人達が一気に騒がしくなった。
「行くぞ」
「ああ」
二人も他の村人と共に村の端へ向かった。そこには、少々薄汚れた男がいた。
「何があったんだ? あの魔物は?」
村人達の質問に答えようとした男の目に、魔王が映った。何よりも先に伝えねばならないことがあると言って、男は魔王の前へ駆け寄った。
「あいつは……勇者に殺られました」
全てが一瞬止まった。
一番初めに言葉を発したのは少年だった。
「……勇者」
考えなかったわけではない。望んだことが一度もないかと言えば嘘になる。始めて魔王を見た時は当然勇者を望んだ。だが、勇者の情報は一向にやってこなかったので、今回は勇者は生まれていないと勝手に思いこんでいた。
「そうか……」
硬直している者達の横を、魔王は音もなく通り過ぎ、森へ入って行った。その目は悲しげに伏せられていて、少年は魔王を追おうとした。
「やめてあげなさい」
少年を止めたのは村の女だった。
「きっと、一人になりたいはずだから」
女に言われ、少年は森をじっと見つめた。何があったのかを話している男の声は右から左に流れるばかりで、頭に残らない。
これからは魔王と王国にもいけるようになり、一緒に市場を見て回るのだと少年は思っていた。村の中だけでも、あれほど様々なものに目移りさせていた魔王なのだから、王国へ行けば、もっと多くのことを聞いてくるだろうと思い、密かに知識を蓄えていた。
「夢、だろ……」
そう言って、今までの生活の方が夢のようだったと少年は一人感じた。
「じゃあ、まだ勇者はこないのね?」
「ああ、たぶん」
唐突に少年の耳に言葉が入ってきた。
「どれくらいだ?」
男に詳しい話を聞こうと、少年が人の間に割り込む。
「そうだな……成人するに七年程度。それから三年もすればくるんじゃねぇか」
国の法で、成人するまでは戦いに参加することは許されないが、魔王との戦いともなれば、それから数年経験を積ませなければならない。すぐにでも魔王を倒したいという気持ちはあるだろうが、勇者が死んでしまえば何もかもが終わってしまうのだ。
リミットは約十年。現実的な数字を突きつけられ、少年は愕然とした。あとそれだけしか平和は続かない。いや、それだけ続くかも疑問だ。
「皆様は何も心配しなくていいですよ」
魔族が言った。
「ですから、今までどおりの生活をしてください」
その方が魔王様も、死んだ魔物も喜ぶと言った魔族は、近くにいた村人の手を掴み畑へ向かった。
「でも……!」
「私達は大丈夫ですよ」
悲しげな瞳は隠しきれていなかったが、気丈にしている魔性の者達に気を使わせまいと、みんな普段どおり振舞った。
その場に一人残されてしまった少年は大人しく家に帰ることにした。
「ただいま……」
「あ、お帰りなさい」
村では情報が回るのが早い。少年の母親は当然、勇者のことを知っていた。自分の息子が人一倍魔王と仲が良いことを知っている母親は、息子にかける言葉が見つからず、部屋へ入って行った息子の背を黙って見ていた。
「…………普段どおりって」
考えれば考えるほど、普段どおりがわからなくなる。魔王にしてやれることもわからなくなる。
魔王は励ましを求めていない。慰めもまた求めていない。少年は始めて自分の無力さに腹が立った。
「あいつと市場に行って、面倒を見るんだ」
口から零れた言葉は少年が思い描いていた未来。
「あいつ、まだ人間の文字を覚えてねぇから、教えてやらねぇと……」
ベットのシーツを握り締め、頭を働かせる。あと十年程度で何ができるのだろうかと。
「そうだ……。絶対に木の実を実らせる魔法を使わせてやるんだ」
永遠だと思われていた時間が期限付きだとわかった今、少年は一分一秒が惜しく思えてきた。すぐにでも行動を起こしたいという気持ちは湧きあがってくるのだが、まだ気力が湧いてこない。
「……今日は、寝ようか」
明日起きればいつも通りの日常を過ごせるような気がして、少年はまぶたを閉じた。全てが夢だったらどれほど幸せだろうかと思いながら。
子供の十年というのはあっという間に過ぎてしまう。
「魔王! お前またここにいたのか」
「少年。お主、畑の手伝いはどうした?」
「いいんだよオレは。ってか、もう少年って歳じゃねーし」
少年は青年と呼ばれる歳になったが、少年と魔王の仲は昔と変わらずだった。
「我から見ればまだまだ少年だ」
魔王は十年で常識というものを学び、人間の文字もマスターした。畑を持ち、魔性の者達共有の家畜を飼うほどまでになった。水の魔法は完璧に使いこなし、草の魔法もある程度ならば使えるようになった。ただ、少年が望むような魔法は使わなかった。
「オレがこんなにでかくなったのに、お前は変わんねぇもんな」
一人っきりになりたいとき、二人だけになりたいとき、魔王と少年はいつも森の奥にある池の前にきていた。
少年はできる限り魔王や魔性の者達と話し、行動してきた。十年前にあった出来事が忘れられなかったのだ。だが、十年が経った今でも、勇者は現れない。勇者の身に何かあったのではないかと、都合のいい想像に想い託している。
「十一年前だったな。我がこの村へきたのは」
「ああ。アレから色んなことの連続だったな」
一年目は何一つ常識を知らず、二年目は勇者の存在が明らかになった。その後も、魔性の者達は村に様々な出来事を運んだ。
「村が干ばつに見舞われた時はマジで焦ったなぁ」
村が水不足になったとき、魔王は魔法を使い、村を救った。この時ばかりは、少年も魔王は水の魔法を優先的にマスターしたことを感謝した。
「我はお主が牛を十頭も暴走させたときが一番驚いたかもしれん」
魔王の言葉に、少年は胸がぐさりと突き刺された気分になった。少年の中でも、その話は黒歴史として刻まれているのだ。
「悪かったって……」
暴走し、手がつけられなくなった牛を止めたのは、当然魔性の者達だった。ことが収まった後、村中の大人からも、魔王からも説教をされたことは今でもトラウマだった。
「てか、お前も始めて牛のお産を見たとき、すっげーみんなに迷惑かけたじゃねぇか」
始めてのお産を見た魔王は、生命の神秘に酔いしれる暇などなく、破水を見ては驚き、足が出ては驚きと、役に立つどころか、お産に立ち会っている者達の邪魔をしていた。
「誰しも始めての経験と言うのはああいうものだ」
尊大な態度を崩さない魔王だが、付き合いの長い少年は魔王が恥ずかしがっているとわかっていた。
一年を共に過ごすだけで、昔話はできるようになる。十一年も共に過ごせば、昔を懐かしみ、多くのことを話すことができる。
過去のことを話すというのは楽しく、また恥ずかしいものだったが、お互いの中にある記憶を呼び起こしていくことは有意義なものだった、
「本当に十一年間、様々なことがあった」
感慨深げに呟く魔王に、少年は嫌な予感がした。そして、残念なことに、嫌な予感というのは当たると相場が決まっている。
「我らは、北へ戻ろうと思う」
魔王の言葉が耳に届くと同時に、少年は魔王の腕を掴んだ。
「何で……。北の大地は不毛の地なんだろ? 陽射しもなくて、お前の好きな花だって咲いてないんだぞ?」
必死に引き止めるための言葉を吐き出す。
「まだお前に見せてやってないものもあるんだ。きっと驚くぞ!
あとそうだ、お前が可愛がってた豚の美智子な、もうすぐ子供を産むんだぞ」
「少年。聞いてくれ」
掴まれていない方の手を、そっと少年の手に重ねる。
「去年は雪合戦、負けたけど、今年こそは勝つんだ」
「王国を見張らせていた使い魔が報告してきた。勇者がこちらへ向かって、旅立ったってきている」
「ほら、ずいぶん前に作った酒、あれさ、来年の夏ごろ飲み頃だってよ」
「ここに我らがいれば、迷惑がかかる」
「迷惑だなんて誰も思わねぇよ!」
引き止める言葉をやめ、少年は叫んだ。
「みんな、お前らのことが大好きなんだ……」
「嬉しく思う。だから、勇者がきたら脅されていたと言って欲しい」
「十一年間、同じ村の仲間だったじゃねぇか」
少年の声は、腕は震えていた。
「一時でも、仲間にしてくれたことを感謝する」
「一時なんかじゃねぇ……。これからも、ずっと仲間だ」
腕を掴む力を強くし、少年は魔王を離すまいとする。
「物語はいつもハッピーエンドで終わると決まっている」
魔王は優しい声で少年に言う。
「この世界のハッピーエンドは、我が滅ぶことだ」
「何で!」
納得できずに少年は再び叫ぶ。魔王は答える言葉を持っていない。
「なあ、約束しろよ。生きて帰ってくるって」
掴んでいない方の手の小指を出すが、魔王は指をからめてこない。
今まで何度も指切りをした。魔王は何一つ約束を違えることはなかった。
「早く……」
「それはできない」
「オレのハッピーエンドはお前が滅びることじゃねぇんだよ!」
少年はとうとう目から涙をこぼした。
情けない姿を見せていると思いつつも、涙は止まらず流れ続ける。
期限付きの時間だと覚悟していた。だからこそ、無駄な時間を過ごさぬようにしてきた。ただ隣にいるだけでもよかった。共有の記憶を持てればそれでよかった。ただ、共にいる時間が増えれば増えるほど、終わりの時間が怖くなってきた。
「オレさ、お前と王国の市場に行きてぇんだ。きっとお前驚くぜ? お前の質問に全部答えるために、実は勉強してたんだぜ?」
「ありがとう」
「礼なんていらない。だから――」
魔王の瞳を見る。髪と同じく漆黒の瞳は揺れず、意思の強さをものがたる。何を言ってもひき止められない。少年は直感的に感じとった。だが、だからといって諦められるような問題でもない。
「少年、我は何度でも礼を言おう」
魔王と同じく、少年の意思も揺らがない。
「何度も少年には助けられた。
我に木の実の区別を教えてくれたのも、木の実の採り方を教えてくれたのもお主だ」
昔話をするような軽い口調ではなく、最後の言葉としての重みのある口調。少年は魔王の腕をさらに強く掴む。
「家畜の飼い方を教えてくれたのも少年だ。我らが早く村に馴染めるようにとしてくれたのも、水や草の魔法を使えるようにしてくれたのも少年だ」
十一年間、魔王は少年に世話になりっぱなしだったと笑い、少年はこれからも世話してやると言う。
「だが、我が一番感謝しているのは、始めて出会ったときのことだ」
村を制圧した魔王に、ただ一人、少年だけが牙を向けた。
「あの時、お主がいなければ我は世界を制圧していた。おそらく、今のような暖かい共存などできなかっただろう。
我らはずっと人間と共に生きたかった。暖かい陽射しと、植物。そして人間。それが我らの理想だった」
共存という手段を思い浮かばなかったため、制圧という形をとっていた魔性の者達だが、人間の存在を無視するならば、適当な場所に集落を作れば良かっただけの話。魔王がそれをしなかったのは、光の中で生きている人間と言う存在に惹かれたからに他ならない。
「じゃあ、戻んなよ」
「それはできない」
二人の意見は交じり合うことがない。交じり合うのを待つこともできない。
魔王は呪文を唱えた。それは今まで少年が聞いたことのないもので、魔王が始めて使う魔法だということがわかった、
「少年、お主の望んでいたものだ」
魔王は優しく少年の手をほどき、耳もとで囁き立ち去った。
「……馬鹿だ。お前、本当に……!」
少年の目の前には、全ての季節の木の実が実った小さな木が生えていた。草の魔法をある程度使えるようになってからも、決して叶えてくれなかったことを、餞別と言わんばかりに残して行った魔王が心底憎らしかった。
「おい……! 魔王さん達、行っちまった……ぞ……」
魔性の者達が北へ帰り、少年の友人の一人が知らせにきてくれた。
「ああ……。知ってる」
涙を流しながら、季節はずれの木の実を食べている少年に、友人は少年が先ほどまで魔王といたことを知った。
「止めなかったのか?」
「無駄だった……」
基本的には素直な魔王だったが、案外頑固なところもあったことを知っている友人は、だろうな。と苦笑した。あまり魔王と親しくない友人ですら、悲しいのだ、親友以上に親しかった少年にとって、自ら死を選ぶようなマネをした魔王にどのような感情を持っているのか、想像もできない。
「……なんか、言ってたか?」
「勇者がきたら、脅されてたって言えって」
魔王が言いそうなことだと友人は言い、少年は木の実を食べた。
「あんたの言うとおりだったよ。木の実は、自然にできたものが一番だ……」
魔法で作られた木の実に味気なさを感じ、少年は呟く。
「……オレ、先に村に行くわ。魔王さんの言葉もみんなに伝えたいし」
村へ戻った友人は、村の者達に魔王の言葉を伝えた。そして、村全体で一つの結論をだした。それは十一年間の想いを乗せた結論だった。
「で、魔王はどこ?」
一ヶ月もすると、雄雄しい馬に跨った勇者が村へ訪れた。
誰もが勇者の前に立ちはだかり、全員一致の結論を勇者に叩きつけた。
「お前に魔王さんは殺らせない!」
村人の誰もが武器を持ち、勇者に向けた。
「んじゃ、死ね」
馬から降りた勇者は、鞘に入れることのできない特殊な形状の剣を抜き身で持ち歩いていた剣を手に、血に飢えた獣の表情を浮かべた、
「ずっと、ずっとこの日を待ってたんだ」
手始めに、一番近くにいた少年に勇者は剣を振り下ろした。迷いのない振りに、少年は死を覚悟したのだが、一向に体が切り裂かれる感覚がない。
とっさに固く閉じたまぶたを開けると、そこには何度か見たことのある魔族が立っていた。
「魔族か……」
手ごたえのある獲物に出会えたことを勇者は喜び、剣を構えなおす。
「魔王様からの伝言だ。北の大地にこい」
魔族と勇者は睨みあい、緊迫した空気で辺り一帯を包んだ。
「裏切り者を全滅させてから行ってやる」
ニヤリと笑い、言葉を出したのは勇者。魔族は眉間にしわを寄せて反論する。
「勘違いするな。こやつらは魔王様の忠実な部下。忠義心が強すぎるあまり、こうして暴走することもしばしばだがな」
勇者はそれを嘘だと見抜いていたが、埒のあかない言い合いをするくらいならば、少しでも早く北の大地に足を運んだほうが楽しいだろうと判断した。
「そういうことにしておいてやるよ」
再び馬に跨り、勇者は北へ馬を走らせた。
勇者の心の中は魔王への興味で一杯になっていた。自分が城で稽古にいそしんでいるころ、魔王はあの村で何をしていたのだろうか。どんな生活を送っていたのだろうか。
信頼や絆など勇者はくだらないものだと思っていた。ずっと人を信じられない環境で育ったからということもあったが、何よりも城の空気は最悪だった。
勇者の実力が講師を越えた辺りから、城の中は早く魔王討伐へ行けという空気で満ち溢れていた。
「オレが死んだら、あいつらどんな顔すんだろうな」
見てみたいような気もしたが、死ぬのは嫌だった。第一、死んでしまえば何も見ることができない。
王国から村につくまでにかかった時間よりも、北の大地につく時間は早かった。その理由の一つには、勇者が魔王との戦いを望み、馬をせかしたということもある。
「マジで何もねぇのな」
見渡す限り薄暗い地面が続いている。空は雲に覆われ、地面は水分の欠片もなさそうな乾いた土。石はあるが、雑草はない。
「オレだったらこんなとこに封じ込められるのは勘弁だな」
そんなことを言いつつ、魔王を探す。見たところ、城らしきものもないため、どこに魔王がいるのか検討もつかない。
変わり映えのしない風景と、乾いた空気に勇者は神経を苛立たせたが、一向に魔王が見つかる気配はしない。村にきていた魔族を捕まえて、魔王の元まで連れていかせればよかったと、今さらなことを考え、地団駄を踏んだ勇者は土ではない何かを踏みつけた。
「……本、か?」
手にとって見ると、そこには遊具のイラストが載せられていた。文字はなく、全てのページに遊具のイラストが描かれているだけ。
「すまんが、それは我らの物だ。返してはくれないだろうか?」
本のページをめくっていた勇者に、明らかに魔族ではない口調の声が届いた。
「あんたが魔王か」
「ああ」
二人は始めて互いを見た。
一直線上に並ぶ二人の姿は、まさに光りと闇。
「返すぜ」
勇者は本を魔王に投げ渡した。あっさり返してもらえた本は、魔王によって呼び出した使い魔に渡された。
「行けここは戦場になる」
魔王の命に従い、使い魔は何処かへ本を持ち去って行く。
「あんなもん、どーすんだ?」
「本は読むためのものだ」
二人は一歩も動かず会話を続けたが、その会話は唐突に途絶えることとなった。
「んじゃ、お仕事させてもらうぜ」
勇者は剣を構え、魔王に向かって突撃した。魔王は後ろに飛びのき、手を突き出し呪文を唱える。だが、呪文が唱え終わる前に、勇者の攻撃が繰り出される。
大きなダメージはくらわなかったが、呪文が中断させられ、魔法を使うことができない。
「こんなもんか?」
勇者はニヤリと笑いながら剣を振るう。魔王も勇者がそう簡単に魔法を使わせてくれないだろうとわかったのか、勇者の懐に素早くもぐりこみ、体勢を崩させる。その隙に後ろへ下がり呪文を唱える。
「なんだ、お前も剣を使うのか」
唱えられた呪文は攻撃のためではなく、剣を呼び出すためのものだったらしく、魔王の手には、勇者の剣と比べても見劣りしないほどの剣が握られている。
剣を握った魔王は、逃げるのをやめて、積極的に勇者に攻撃を加えようとする。
「やる……じゃねーか!」
村で平和な生活をしていたとは思えないほどの剣技を見せる魔王だが、十一年間剣術を学んできた勇者も負けていない。
お互いに、小さな傷をつけあうことしかできない状態が続く。
剣を交わらせながら、魔王は呪文を唱えるが、それよりも先に勇者が威力の弱い魔法を繰り出し、魔王の呪文を中断させる。
「おい、村での生活は楽しかったか?」
剣を受けながら勇者は魔王に聞く。その途端に、魔王は隙を見せた。勇者としては動揺をさそったつもりはなかったのだが、結果として動揺を誘えたのだから、それを狙わない手はない。
戦いが始まって、始めて傷らしい傷をつけることができたことに勇者は喜びを隠そうとしなかった。
「そんなにあいつらが心配か? 安心しろ。殺しゃしねーよ」
たぶんという言葉はあえてつけない。
勇者は再び切りかかる。傷を負った魔王の動きは確実に悪くなっており、形勢はどんどん勇者有利になっていく。
「光りのある場所で過ごした十一年間のことを教えてくれよ」
「村の者はみな従順に我に従っていた」
見え透いた嘘をつく魔王に、勇者は口もとを歪ませる。
「そんなに守りたいのか?」
勇者は魔王の剣を弾き飛ばし、魔王を地面に押し倒した。すぐに魔王に馬乗りになり、勇者は笑う。魔王は死を覚悟したが、勇者の剣は魔王を殺さずに、魔王の肩を地面に縫い付けた。
「――っが!」
痛みが魔王の体を駆け巡る。
「なあ。教えろよ。お前の十一年間」
剣を緩く動かし、継続的に痛みを与える。それでも魔王は何も話さない。言うことといえば、村人は従順だったというようなことばかり。
魔王が嘘をつくたび、勇者の脳裏には立ちはだかってきた村人の顔が思い浮かぶ。
「……オレ様はよ、聞いてみたいんだ」
剣の動きを止め、勇者は言った。その瞳は真っ直ぐ魔王を見ており、互いに瞳を映しあった。
「オレ様と同じように、転生してきたやつの話を」
髪と目、そして魔王ならば角。勇者ならば痣。それらを持って生まれたその瞬間に、他に何かになる道を閉ざされた者同士。
「優しい魔王様はどんな生活だった? 極悪な勇者様は肥溜めの中にいるような生活だったぜ?」
思い出した鬱憤を晴らすかのように、勇者は剣をさらに深く突き刺した。
「どうせ、死ぬんだ。最期にオレ様の話を聞けよ」
勇者は感情のない声で思い出話をした。その中には楽しかったものなどなく、不変的な毎日と常に周囲にある目線への不満。誰もが孤児が城にいることを疎ましく思い、先代の勇者と今の勇者を比べる。
住みかと食事には困らなくなったが、自由はなく、いつも監視されていた。
「この髪か? この目か? この痣か? どれがオレを勇者だと言う。オレはただの孤児だ」
魔王は辛そうに叫ぶ勇者の姿に、自分の姿を重ねた。
北の大地に封じられていたころの、光りや自由に飢えていたころの魔王の姿と、今の勇者はどこか似通っていた。
「我も、魔王だということを、疑問に思ったことはある」
生まれた瞬間には髪と目と角が自分を魔王としていたが、それらを持っているからと言って、一体なんだというのだろうか。むしろ、それらを持っているからこそ、北の大地に封じ込まれているのではないか。
「……でよ、何でお前は反撃しねぇんだ」
勇者は話を唐突に変えた。
「何のことだ」
「ふざけんな。オレ様が話してる間に、お前は呪文を唱えることも、ここから抜けだすこともできただろうが」
勇者は魔王が抜け出すことを覚悟の上で話していたため、まったくの無抵抗だった魔王に疑問が隠せない。
「ああ。そういえばそうだな」
「嘘が下手だ。正直に言え」
抜け出した魔王と戦うのもまた一興と考え、それを楽しみにしていた節もある勇者は不満を前面に出して言う。
強引で、どこか幼いところが見え隠れするところは、少年に似ているかもしれないと頭の片隅で考えていたら、自然と言葉が零れた。
「世界にとってのハッピーエンドとは、なんだと思う?」
地面に縫いつけられているような状態だとは思えないほど、のん気な声色で尋ねてくる魔王に勇者は律儀に考える。十一年間の稽古の成果が、これほど一瞬で終わってしまうのはどうも納得できない。
「とりあえず、お前が死んでオレ様も死ぬことだな」
勇者が自分自身の死まで告げたことに驚きながらも、魔王の死が世界のハッピーエンドだと言う。頭の回転が早い勇者は魔王の言わんとしていることがすぐに理解できた。
「だから死ぬのか」
魔王は答えない。勇者は沈黙を肯定と捉え、爆笑した。
北の大地で、魔王に剣を突き刺しながら笑う勇者が今までにいただろうか。いて欲しくないと切に願う。
「お前が生きてて、何か迷惑がかかってんのか?」
鼻と鼻がぶつかりそうになるほど顔を近寄せ、勇者が聞く。
「城の周りにいる者達は迷惑しておるだろう」
「んなもんは、あいつらが勝手に逃げてるだけだろーが」
勇者は剣を引き抜いた。
「まあ、お前が死にたいってのはわかった。けどなぁ、オレ様はこんな戦いじゃ満足しねぇ。本気で殺りにこい」
剣を握りなおし、再び魔王に切りかかる。手を抜けばすぐにばれてしまうと考えた魔王は、先ほどまでの動きが嘘のように素早く動き、弾かれた剣をとる。
「そうだ! この緊張感だ!」
互いに距離をとり、同時に走りだす。剣と剣が交わり、火花が散る。
魔王は短い呪文を唱え、勇者の足元の土を泥に変化させた。水の魔法が使えるようになったから使える魔法。魔王は心の中で少年に感謝した。
勇者が泥に足をとられ、態勢を崩した瞬間を魔王は逃さずに切りつける。狙ったのは魔王がやられた場所と同じ左肩。肩をやられて剣が使いにくくなるのは魔王も勇者も変わらない。
左肩をやられ、勇者は苦痛に顔を歪めるが、どこか楽しそうな表情をしている。
「頭ぁ!」
魔王の頭を狙い、剣を大きくふる。当然攻撃後の隙も大きくなるのだが、勇者の頭の中には戦いを楽しむことしか残っていない。
攻撃後の隙を狙い、魔王が剣を突き出すが、紙一重で勇者はそれを避けた。
魔法と剣の応酬が続き、二人はあっという間に血まみれになった。それは自分の血であり、相手の返り血でもある。
互いに血を出しすぎてふらつき始めていたが、剣を離そうとはしない。それどころか、戦う力は増すばかり。
剣を交えていくうちに、互いの心が理解できくるというような展開は二人にはなかった。どれだけ剣を交えようとも、相手が考えていることはわからず、頭の中は戦うことだけに染められていく。
だが、限界が近いということも二人は知っていた。頭は戦いに染まったとしても、体が動かなければ意味がない。大量の出血と、傷のため、二人は体を動かすことができず、二人の間はかなり離れている。
最後の攻撃が二人の中で決まった。
勇者は剣を強く握り締め、走った。
魔王は手を勇者に向け、呪文を唱えた。
この攻撃で全てが決まる。それは決定事項だ。二人には相手の攻撃をかわすほどの余裕はない。
魔王の魔法が勇者の体を貫くが先か、勇者が魔王の体を突き刺すのが先か。
罠もフェイントもなく、勇者はただ突き進み、魔王は素早く呪文を唱える。魔王の呪文が終わりに近づいたとき、勇者は魔王のすぐ傍まで迫っていた。
勇者の剣が突き出されたとき、魔王の呪文はあと一言で終わりを迎えようとしていた。
「――終わりだ」
魔王の魔力が弾け飛び、辺り一面に突風が吹いた。突風は砂を巻き上げ、二人の姿を隠す。
砂煙がなくなり、二人の姿が映った。
「オレ様の、勝ちだ」
突風の中心地にいた勇者は髪が酷いありさまになっていたが、勇者の剣は確かに魔王を貫いていた。ただし、貫いたのは腹だったため、魔王はまだ生きている。
「ああ……。わ、れの負け、だ」
もはや抵抗する力は残されていない。
「……ゆう、しゃよ……」
血を吐き出しながら、魔王は勇者に声をかけた。
「わ、れを、殺し、た後……。ふう、い、んは……勘べ……んしては、くれ……ない、だろうか?」
北の大地で過ごした時間は長く、辛いものだった。次の魔王や、今もまだ生きている魔性の者達にあの時間を過ごさせたくなかった。
「……さあ、な」
正直なところ、勇者は封印をするだけの力が残っていない。魔王にトドメを刺した後、死んでしまうということも考えられた、それどころか、トドメを刺すことができるかも疑問になるほど勇者の意識は朦朧としている。
「――あ」
最後に一言呟いて、勇者は意識を手放した。
「ま、た……く」
勇者が意識を手放したのを見て、魔王もまた意識を手放した。もう二度と目覚めることはないだろうということは覚悟の上で。
「魔王様!」
先ほどの突風に、決着がついたのだと感じた魔性の者達は魔王のもとへ駆け寄った。意識はなく、腹には剣が突き刺さっていたが、まだ何とか息はあった。
「剣を抜くぞ……。すぐに傷口を押さえろ」
魔族の一人が剣を引き抜き、他の者達が傷口を抑える。呻く魔王の口に、回復効果のある血を飲ませる。助かる確率は非常に低いが、それに賭けるしか魔性の者達にはできない。
「勇者は……。どうする?」
手のあいたものが勇者を抱えて尋ねる。本来ならば、殺すべきなのだろうが、魔王がそれを望んでいないと知っているため、魔性の者達は殺すことができない。
「一応、血を飲ませてやれ。後はそいつの体力次第だ」
不服ではあるが、血を飲ませ、地面に横たわらす。
「魔王様、お願いします……」
魔性の者達は全員が涙を流し、魔王の命が助かることを願った。そして、叶うのであれば、あの村でまた過ごしたいと願った。
その願いが届いたのか、魔王は丸一日経っても生きていた。そして勇者もまた生きていた。
勇者の生命力を憎らしく思うよりも、魔王の命が失われていないという喜びに満ち溢れていた。
魔王が意識を取り戻すまで、誰も北の大地を離れなかった。魔王が倒され、封印されるまで村で待機するように言われた魔族を除いた全ての者が魔王の傍でじっと待っていた。
「……っ。オレ様は……生き、て……?」
先に目覚めたのはダメージの少ない勇者だった。誰もが勇者が先に目覚めることを予測していたため、驚きはしなかったが、目覚めた勇者によって魔王が殺されてしまうのを恐れた。
まだ全快していない勇者に槍をつきつけ、魔王に近づかせないようにする。
「……何故、助けた」」
倒れる魔王と、自分の体の様子を見て、自分が魔性の者達に助けられたことを把握した勇者は、睨みつけるように聞いた。
「私達は魔王様が望まれないことをするわけにはいかない」
魔族が答えると、勇者は目を閉じて笑う。
「本当に馬鹿ばっかりだな」
「貴様も、大概だと、思うが?」
魔性の者達が笑う勇者に注目していると、一番望んでいた声が聞こえてきた。
慌てて魔王の方に目を向けると、目を閉じたままだが、薄く笑う魔王の姿があった。
「先に、意識を失うなど、ありえん……」
あのまま放置されていれば、魔王は確かに死んでいただろう。だが、敵の本拠地で戦っている最中に意識を手放すなどありえてはいけないことだ。死んでも文句は言えない。
「失いたくて失ったわけじゃねーよ」
魔法の一つでもくらわせてやろうかとも思ったが、まだそこまで体が回復しておらず、勇者は口で反論するに留めておいた。
「ガキだな」
馬鹿にしたような口調に、勇者は体に鞭をうって魔法を使った。
「貴様!」
「……よ、い……」
いつものように言うが、さすがに体がきついのか声が弱々しい。
「構って、欲しい……のなら、態度で、表せ」
子供に諭すような優しい声色で魔王は言う。
「口や体があるのだ。使わんと腐るぞ」
「何言ってんだよ」
勇者の質問に魔王は答えない。しばらくすると、寝息が聞こえてきた。どうやら勇者と話して疲れてしまったようだ。
「あー。マジでわけわかんねぇ」
魔王の寝顔を見て勇者は呟く。心の中で今度は先に意識を手放さなかったと笑い、勇者は眠りについた。次に目覚めたときには先ほどの言葉の真意を尋ねるつもりで。
「誰か、村へ行ってこの状況を説明してきてやれ」
きっと村の人も、村で待たされている魔族も心配しているはずだ。一度目覚めたことで、命の心配はどうにかなくなった。
一人の魔族が頷き、村へ向かって飛びたつ。村へ行った魔族が帰ってくるころには、魔王も勇者も立てるくらいには回復しているといいと魔性の者達は思った。
勇者は嫌いだが、魔王が勇者のことを気に入っているというのは、先ほどの会話でわかった。転生してきた者同士、何か通じ合うところでもあったのかもしれない。
魔王と勇者が仲良くなるなど、前代未聞のことだが、魔性の者と人間が共存するということをやってのけた魔王ならば、それもありうることなのだろう。
魔王が目覚めたとき、横には勇者が座っていた。
「……どうした?」
「起きたのか」
どうにか上体を起こした魔王に、勇者は二日間寝っぱなしだったと魔王に告げた。魔王と勇者が会話した次の日には、勇者はどうにか立ち上がることができるようになっていたが、魔王は一向に目を覚まさなかった。
勇者は目覚めた魔王に聞きたいことがあったので、魔王の寝首をかくようなマネはせず、隣でじっと待っていたというわけだ。
「オレ様はじっとすんのが嫌いなんだよ」
もう成人しているはずの勇者は子供のような文句を言う。
「それはすまなかったな」
魔王は笑いながら謝り、勇者はそんな魔王にあきれてため息をつく。
「で?」
勇者が言うと、魔王は首を傾げる。
「だから、オレ様につらつら説教をかましたあの話だよ」
説明するのが面倒だという風に言う勇者だが、そもそも、二日も前の話を一言で思い出せというのが無茶なのだ。
ようやく勇者が何の話をしているのか理解した魔王は言葉の通りだと言いった。
「はあ? 意味わかんねぇ」
「だから、寂しいのなら、言えばいいということだ」
魔王の優しげな言葉に、勇者は思わずチョップを繰り出した。
「……何をする」
さすがの魔王も、チョップは予想外だったらしく、頭を抑えて恨めしげに勇者を睨みつける。
「お前が意味不明なことをほざくからだ」
そっぽを向いて、勇者は答える。勇者の頭の中は大騒ぎしていた。
寂しいなどという言葉を使ったことはなかった。一人で生きていくことは当然のことで、人に嫌われるのは必然的なことだった。だから寂しいなど思ったことはなかった。
「我は、寂しいときにどうすればいいのか、とある少年に教わったのだ」
柔らかい声に、勇者はちらりと魔王を盗み見る。
幸せそうな表情を浮かべた魔王がそこにはいて、勇者は村にいた一人の青年を思い出した。勇者に敵意を見せる村人達の中でも、もっとも敵意を見せてきていた青年。
「黙っていては、何もわからんぞ」
魔王は不毛の大地に封じられ、周りにいるのは数少ない魔性の者達。特別な存在として生まれた魔王は常に孤独だった。だからこそ光りに憧れた。
長い時の中で寂しさを忘れ、感情も忘れてしまっていた。だが、少年が思い出させてくれた。くるくる変わる表情で感情を思い出させてくれた。共にあることで寂しさを思い出させてくれた。
「ずっと思っていた」
近くにいた魔族達に少しの間席を外してもらい、魔王は語る。
「我は他の者とは違う種族なのだと」
特別である魔王は魔性の者ではなく、魔王という種族だった。世界にたった一人の種族として生まれ、そして死んでいく。その死にかたは生まれた時から決められている。
「特別な存在。結構なことじゃねぇか」
魔王は思う。勇者はまだ少年と出会ってないころの自分だと。
寂しさを忘れてしまった哀れな存在は魔王に言う。
「オレ様は勇者だ。お前は魔王だ。誰にも代わりのできない存在。最高じゃねぇか」
「特別ということが、孤独というものと一緒でもか」
魔王は言い、勇者は頷く。
「お前風に言うなら、オレ様のハッピーエンドは特別な存在として死ぬことだ」
自分にとってのハッピーエンドを語っているというのに、勇者は自分の死を強調する。世界のハッピーエンドを語ったときも勇者は自分の死をいれていた。
「死にたいのか」
それ以外に考えられない。
「別に? ただ、自分がろくでもない存在ってのは知ってる。んで、お前を殺した後にいらなくなったオレ様を見たくない。それだけだ」
惨めな自分は見たくないと勇者は言い、魔王はやはり死にたいのだなと返す。それに勇者が反論し、魔王がまた返す。それを繰りかえし、最終的に折れたのは勇者の方だった。
「そう、かもな」
生きるということは辛い。
「オレはずっと一人だった。物心ついたときにはゴミ箱をあさって生きてた」
汚い物をみる人々の目。それは先代の勇者と今の勇者を比べる城の者の目にも似ていた。
「そんなオレが勇者? 最高に馬鹿馬鹿しい冗談だ」
勇者はゆっくりと立ち上がり、嗤った。十一年間という長い時間を思い返し、自分がずっと無駄なことをしていたかのように思えてくる。
「オレ、何のために生きてたんだろうな」
どれほど思い返しても、心の底から楽しかったといえるような出来事はなかった。今まで見下してきていた連中を見下せる、従わせることができる。そんないびつに歪んだ楽しみしかなく、講師との稽古も心の底から楽しかったといえるようなものではなかった。自分の意思でやっていたことなど一つもない。
「こんなことなら、飯の心配でもしながら生きてた方がずっとマシだったんじゃねーかって思うときもあった」
楽しい生活ではなかったが、それなりのスリルと自分の意思があった。城にいる時も、勇者は自分の意思を通してきたつもりだが、いつの間にか城の者達の意思に従ってしまっていた。
虚しいという感情がいつも胸を支配していた。勇者はそれに気づかなかった。
「お主がどのような人生や十一年を過ごしてきたかは知らん。だが、せっかくだ。我を変えた少年に会ってみんか?」
魔王も勇者もたった一人の種族だというのならば、魔王という種族を変えた者が勇者を変えられない道理はない。
まだきしむ体に鞭打って魔王は立ち上がる。
「何でオレが」
「これからの時間のため、生きてきた。それではダメなのか?」
魔王は右手の小指を出した。
「……何がしてぇんだよ」
「指切りだ。知らんのか?」
勇者の手を取り、小指を強制的に絡ませるが、すぐに勇者に振り払われてしまった。
「それは知ってる!
指切りなんてして、どうするって聞いてんだよ!」
怒鳴りつける勇者の小指を再び魔王は取る。碧の瞳を真剣に見る魔王の目に、勇者はその手を払うことができなかった。
「我々で最後にしよう。もうたった一人の種族など作らぬように」
魔王を倒すために勇者が転生するというのならば、倒さなければならないような魔王が生まれなければいい。人間と共存し、魔性の者達に王が必要でなくなれば魔王など生まれなくなるはずだ。
「約束しようではないか」
勇者は頷き、二つの種族は約束を交わした。
誰も知らないほど昔、世界は二つの種族が二分していた。どちらが世界の主権を握るかという大きな戦いを始め、世界は荒れ果てていた。これ以上世界が荒れることを恐れた両方の種族は、お互いに一番強い者を一人だけ出し合い、決着をつけさせることにした。
だが、どちらの種族も万が一負けてもいいように戦いにおもむく者に魔法をかけた。その魔法こそが、死してもその容姿と力を次へと受け継がせる転生の魔法。何千万年という長い時の中で転生の魔法のことは忘れられ、魔法をかけられた者を、勇者と魔王と呼ぶようになっていった。
魔法を解く方法はただ一つ。二人が小指を絡めあい、約束をすること。
「心配かけんなよ! この馬鹿!」
「すまん」
勇者と共に村に帰った魔王は少年に怒鳴られた。
「で、勇者様をどうすんだ?」
少年に問われ、魔王は勇者の背を叩く。
「この者も我とともに村で暮らすことになった」
魔王の言葉に誰もが驚き、反対したが、魔王は一歩も譲らなかった。
古い魔法は解かれた。もはや誰も知らないような古い歴史に縛られる要素はなくなり、二つの種族は新たな道を歩み始めた。
「んじゃ、約束しろ」
少年が小指を出して魔王に言う。
「もう二度と勇者に倒されるのがハッピーエンドなんて言わないって」
魔王は頷いて少年と指を絡ませた。
「我はこの村で生きよう。この命が終わるまで」
暖かい陽射しと心地のよい風が村を吹きぬけた。
END