固く目を閉ざしていた小町が目覚めたのは、陽射しがオレンジ色に変わり始めようという時刻だった。場所はすでに街と外の境目辺りにさしかかっていた。椿に背負われていることに気づいた彼女は、慌てて降りようとしていたが、受身も取らずに魔物の攻撃をまともに受けたのだ。気持ちはともかく、体の方はついていかない。
 面倒だからと、椿は小町をしっかりと背負い、降ろそうとしない。小町はそんな風に扱われ、力なく笑い、ありがとう。と、言った。感謝の言葉と被るように、大空は謝罪の言葉を口にしていた。
 それは怪我をさせてしまった罪悪感からか、未だに振り切ることのできていないらしい彼の心のもやからか、聞き逃しかねないほど小さく、存在感のない声だった。
「……いいよ。私達、仲間じゃない」
 小さな声だとしても、小町は聞き逃さず、丁寧に拾い上げて小さく笑う。
 彼女は一途に、大空のことを、もちろん椿も含めて、仲間と言う。彼らがそのことばから目を背けていたとしても、彼女からしてみれば関係ないのだ。その思いが一方通行で、報われない可能性があったとしても、彼女は仲間だから。と、いう曖昧すぎる理由で助けてくれる。
 当たり前すぎて、自分の行動がおかしいと思うことはないのだろう。行動理由を疑問に思うことなどないのだろう。
 真っ直ぐな意思は、逃げたがる心に深く突き刺さる。大空だけでなく、椿までもが表情を固くしたことに、小町は気づかない。彼女は体の痛みに耐えるので精一杯なのだ。
 己の胸に飛来した痛みからも目を背けた二人は、黙々と足を進めた。目的地は、依頼人の待つ酒場だ。怪我をした小町を病院に連れて行った方がいいのかもしれないが、依頼人にネックレスを渡し、任務が完了したことをハッキリと彼女に伝えてやりたい。
 病院へ行くのも、家へ送り届けるのも、その後でも構わないはずだ。
 道中、ぐったりとしている小町が心配なのか、あの椿が誰かを背負っていることが物珍しいのか、周囲から何度か指差された。好奇の目も指も全て無視して、二人はようやく酒場へついた。
 椿がちらりと大空を見る。
 彼は一つ頷き、手がふさがっている彼女の代わりに扉を開ける。
 アルコールが回った喧騒の真ん中を椿が突き進む。始めは騒がしく聞こえていた声が、一歩進むごとに小さくなっていくのは、背負われている小町の様子があまりにも酷いものだからだ。
「任務、成功よ」
「いや、お前……小町は」
 心配そうなマスターに、大丈夫だと伝えるため、小町は顔を青くしながらも軽く手を振る。
「大丈夫。どこも折れてないし、内臓がどうにかなっちゃったわけでもないから」
 深刻な痛みは酷い打撲程度のものだ。しいて付け足すのならば、強い衝撃に体がまだ痺れているから立って歩くことは難しい。
「何があったんだ」
「これだろ? あんたが言ってたネックレス」
 マスターの疑問には答えず、不安気に眉を寄せていた女性へネックレスを手渡す。葉を模したワンポイントが緑に光っている。
「そうです! これ……これです!」
 大空からネックレスを受け取った女性は、笑みを浮かべ、大切そうにネックレスを優しく両手で包み込む。彼女の様子を見れば、それがどれほど大切な物なのかがうかがい知れる。自分に直接関わりのある幸せな出来事に、彼女は見知らぬ他人の不幸など忘れ去ったのか、喜びの涙を流しながら笑っている。
 椿の背中からその光景を見ていた小町は、彼女と同じような笑みを浮かべた。
「よかった……」
「満足した?」
「うん」
 嬉しそうに小町は椿の問いかけに答えた。
 人の笑顔を見るのはやはりいいものだ。浮上する気持ちのまま、小町は大空の表情を見るべく、首を動かす。彼女の目標は、依頼人の人はもちろん、大空や椿にも笑ってもらうことだ。あれほどの喜びを表現されれば、誰だって悪い気はしないはずだ。
 背負われているので、椿の表情が確認できないのは残念だが、せめて大空の笑顔が見たかった。
「――――」
 期待して向けた目線の先には、いつもと変わらぬ無表情の大空だ。
 それを見て、きっと椿も同じような表情をしているのだろうと、小町はわかってしまった。
 笑顔は強制するものではないので、笑えとは言えない。でも、自然に表情を緩める彼らが見たかった。この痛みの代償として、それがあれば、万々歳だったのに。と、思わざるをえない。
「あんたどうする? 家に送って行ってもいいけど、それで大丈夫なの?」
 椿に声をかけられ、ハッとする。
「え?」
「だから、これからよ。
 あんた一人暮らしでしょ。動けるの?」
「あー。うん。たぶん、大丈夫だよ」
 まだ体は痛いが、動けないことはない程度には回復し始めている。家に帰って、薬を塗って眠れば明後日には快調しているはずだ。
「わかった」
 頷いて酒場を出ようと、椿が足を踏み出す。
「ちょっと待ちな」
 背後からかけられた声に、足を止める。
 椿に続こうとしていた大空も足をとめ、待ったをかけたマスターを見る。
「何があったのかは……まあこの際置いておいてやる。
 だがな、お前らはパーティだ。仲間が怪我してんのに、一人っきりの家に放り込んで、はい。さようなら。は、頂けねぇ」
 鋭い眼光が二人を射抜くが、その程度の威圧に負けるような二人ではない。ならばどうしろと言うのだ。と、ばかりにマスターを睨み返す。
 どうやら、椿や大空の頭の中には、家に泊まりこんで面倒を看てやろうという考えは微塵も存在していないらしい。彼らが冷たいのではなく、そういった考えを持つような生活をしてきていないのだと、マスターは知っていたがそれでもすっと許すことはできない。
 近くにあった紙に、さらさらと何かを書く。
「ほら」
 大空に手渡された紙には、地図が描かれていた。
「なんだ。これ」
「温泉だ」
「温泉?」
 見たところ、地図は桜野原よりも少し北にある泉ヶ山の道を描いているようだ。
 泉ヶ山は所々に温泉があり、魔物さえいなければレジャースポットにもなれたであろう場所だ。一般人には危険な場所のため、そこを訪れるのは冒険者や、警備を雇える金持ちくらいのものだが、効能は確かだと耳にしている。
「それはオレがオススメする隠れ湯の地図だ。特別だぞ?」
「いや、特別だって言われても……」
 いまいち、状況把握ができていない三人に、マスターがはっきりと言う。
「三人で今から行ってこい。野宿になるだろうが、それもまた経験だ」
「え?」
 三人の声が綺麗に被る。
「小町に野宿はキツイかもしれんが、まあ一人で家に放置しておくよりかは、椿や大空がいた方が安心だろ」
 一人で納得しているマスターに、言いたいことはたくさんあった。
「……オレは行かないぞ」
 反対を口にしたのは大空だ。
「他人と一夜を過ごすなんざ、落ち着かないだろうが」
「あたしも御免だわ」
 本気で嫌なようで、顔は盛大にしかめられている。
「お前らなあ、いつまでも人と関わりたくない! じゃ、どうしようもないだろ」
 マスターの言葉は正論だが、いつだって正論が認められるわけではない。
 不安気に様子を見守る小町を他所に、二人は頑としてマスターの提案を受け入れようとしない。
「なら言わせてもらうがな」
 呆れた風なため息をついて言う。
「小町が怪我をしたことに、お前らは全く関与していないのか?
 何かお前らにも責任があったんじゃないか? 本来、パーティを組んでるんだから、連帯責任は当然だが、お前らにそれはまだハードルが高いか。
 とにかく、小町の怪我に、少しでも罪悪感や責任を感じるなら、埋め合わせ感覚でもいいから行ってこい」
 言葉に詰まったのは大空だ。
 小町の怪我に彼は間違いなく関わっている。むしろ、怪我をした原因だ。
「あの、私なら大丈夫だよ?」
 空気が凍りつくのを感じた小町が慌てて口を挟む。何なら、このまま歩いて帰りそうな勢いだ。
「……いや、行こう」
 大空が言った。
 気まずいながらも、その目はしっかりと小町を映している。
「じゃあ、はい」
 引き締まった空気の中、椿は大空に背を向けた。
 その行動の意味がわからず、小町は首を傾げ、大空は無言になる。
「交代よ。あたしは帰るから」
「え、ちょっと待てよ」
 慌てて引きとめようとする大空の言葉に、今度は椿が首を傾げる。その様子は、自分の行動に微塵の疑問も抱いていないことが見てとれるものだ。
「何よ」
「一人で帰ろうとするなよ」
「あたしは関係ないわ」
 椿は大空に背を向けたまま言葉を返していく。背負われている小町は、二人に挟まれてたまったものではない。自分のせいで二人が言いあいをしているといっても過言ではない状況だ。心地良いわけがなかった。
「椿。一応、大空は男なわけでな、怪我をしてる小町を温泉に入っているときは支えられないんだぞ。
 というか、男女を二人っきりで野宿させるほどオレも酷い男じゃないぞ」
 助け舟を出したマスターへ、椿が目を向ける。
「そりゃ、そこはどうにもできない性別の差かもしれないけど、あたしは温泉に入らないわよ」
「魔物が出た時の見張りくらいに考えればいい。お前が温泉に入らないことくらいはわかってる」
「……何、忍さんにでも何か聞いた?」
「忍を通してお前に依頼を頼む程度には仲がいいからな」
 二人の冷たい視線が絡みあう。椿の背中にいる小町は、困ったような顔をするばかりだ。このまま家に帰って一人眠る方がずっと心地が良いはずだ。
 マスターの優しさが今はただただ痛い。一歩引いたところから様子を見守っていた大空は、小町の気持ちが理解できたのか、二人を止めるべく一歩を踏み出した。彼としては、少しでも埋め合わせをしておきたいところだったのだが、本人が嫌がっていることを無理矢理するのはただの押し付けだ。
「――わかったわ」
 大空の手が椿の肩を叩く直前、彼女が答えを出した。
「行きましょ」
 伸ばされた大空の手をすり抜けるように椿が歩きだす。背負われている小町も驚いているようだった。
「おい、タオル貸してやるよ」
 投げ渡された大きめのタオル三枚を大空は受け取る。
 マスターの目は少しばかり意地の悪い色を浮かべていた。先ほど、彼らの会話に出てきた「忍」という人物が何か関係してるようだったが、それを問い詰める気は大空にはなかった。椿が意見をあっさりと変える程度の秘密がそこにはあるのだろう。
 職業柄、他人の秘密は大きな価値を持っていることは知っている。だが、彼女の秘密を無理矢理聞き出す利点を大空は見出せない。
「どうも」
 タオルの礼を告げ、先に行ってしまった椿の後を追う。
 地図にある温泉へつくころには、月が高々と昇っているだろう。特に、体力のない椿がいつまでも小町を背負って歩き続けられるのかは微妙なところだ。途中、背負うのを代わってもいいが、大空の胸には靄が残っている。
「ごめんね椿。でも、もう歩けるよ」
「本当?」
「うん。走ったり剣を振ったりは痛いかもしれないけど」
「わかった」
 椿が腰を降ろすと、小町はその足でしっかりと地面を踏みしめる。
「ほらね」
「じゃあ進みましょ」
「そうだね。大空ー。早く早く」
「……ホント、元気そうでなにより」
 皮肉のような言葉は彼女達には届いていなかったようで、すぐに背を向けられた。
 元々不調の小町に、普段の倍以上歩いていることに疲れきっている椿、そして未だに距離をとっている大空。と、なれば、三人の会話が弾むはずもない。
 微妙な雰囲気の中で、かろうじて小町の心が楽しさを訴えているのは、この三人である意味お泊り会をする。と、いう期待だ。
 一夜を共にすごせば、今までは固く閉じられていた扉が開くかもしれないという甘い考えを持ちながら、彼女は前へと進んでいく。
 日がすっかり沈みこんだ頃、三人はようやく泉ヶ山に到着した。温泉があちらこちらで湧いているため、硫黄の臭いが鼻をつく。普通の魔物ならば、この臭いを嫌って近づこうとしないのだが、この環境に見事適応した特殊な魔物がここには生息している。
 三人は自然とお互いの目を見て、魔物が出る可能性が十分にあり、その魔物は少しばかり特殊であることを確認しあう。
 だが、そんな三人の緊張感を裏切るかのように、彼らがマスターの指示した温泉にたどり着くまで、魔物はおろか生物は一匹も見当たらなかった。
「何もいなかったね」
「まあ、楽でよかったわ」
 椿が温泉に手を入れながら言う。少し熱さを感じるそれは、全身をつければ心地良い感覚を生み出すだろう。
「んじゃ、オレはあの茂みの向こう側で待ってるわ」
 大空が近くにある茂みを指差す。辺りは温泉の湯気によって視界が悪い。茂みの向こう側ともなれば、互いの姿も確認できるか微妙なところだ。もっとも、目のよい大空からすれば、その程度の障害は何の意味もなさない可能性があるのだが。
 その可能性を誰も指摘しなかったのは、大空を信じる気持ちを持つ者と、いまいち大空を男として見ていない者しかそこにはいないからだ。
 彼が茂みの向こう側へ行ったのを気配と音で確認して、椿は近くにあった岩に腰を降ろす。
「椿は本当に入らないの?」
「ええ。魔物が出たらちゃんと退治してあげるから、安心して入ったら?」
 そうは言われても、同性とはいえ、服をきっちり着込んだ者を前に自分だけ服を脱ぐというのも気恥ずかしい。
「今日は疲れたでしょ?」
「平気よ」
 取り付く島もない。湯気でよくは見えないが、あの赤い瞳が鋭くこちらを見ているのを感じた小町は、無念を込めた息を吐き、素直に防具を外し始めた。大切な赤い鉢巻も外し、丁寧に畳む。髪を後ろで縛っている紐を解き、小町は一般女性よりも筋肉のついた体を晒す。
 滑らかな肌とは言いがたいそれは、彼女がどれほどの訓練を積んできたかを証明している。
 そっとつま先を湯につけ、そのまま体まで入る。
 お湯の違いなど細かいことはわからない小町だが、体を包み込むような暖かさにほっと息をつく。心なしか体の痛みも抜けているような気がする。お湯を体に馴染ませるように手を動かす。
「気持ちいいよー」
「よかったわね」
 素っ気ないようだが、返ってきた声は柔らかい。
 温泉が嫌いというわけではないようだ。
 特に会話が盛り上がったわけではなかったが、一言二言の会話が何度か続いた。季節の話であったり、温泉の話だったりと、他愛もない世間話だ。
「そろそろ上がろうかな」
 流石にのぼせてきたと、小町が立ちあがろうとする。
「はい、タオル」
「ありがとう」
 椿が小町へタオルを手渡す。
 その時、椿は背筋に寒気を感じ、素早く振り返った。
「えっ?」
 戸惑ったような小町の声を背中に聞きながら、椿は杖を構える。姿は見えないが、何かがいる。
「椿! たぶん、湯気に紛れてる!」
「なるほど、確かに特殊な魔物ね」
 気配が薄いのもそのためだろう。
 特殊な形態をしている魔物は物理的なダメージでは倒せないことが多い。ここにいたのが大空ではなく、椿であったことが幸いした。
「小町、頭下げて」
「わかった!」
 何をするつもりなのかはわからなかったが、小町は椿を信じて頭を下げた。
 その時、椿の背中にわずかな肌色が見えたような気がした。
「蒸気を消し去る炎よ。舞え。打ち消せ。消し去れ。消焔!」
 瞬間、小町は肌に熱さを感じた。何かが風を切るような音がしたが、顔を上げる勇気はない。息をつめ、時が過ぎるのを待つと同時に、丁寧に畳んでおいた鉢巻は無事だろうかという不安が胸を過ぎる。椿には前科がある。
 熱が風を切る音が途切れると、涼しい空気が小町を優しく撫でた。
「大丈夫か?」
 遠くの方から大空の声が聞こえる。椿の炎で異変に気づいたが、まさか駆けつけるわけにも行かず、茂みの向こうで待っているのだろう。
「大丈夫よ。多分倒したわ」
 椿が言葉を返し、小町は頭を上げる。
 炎はまだわずかに辺りをさまよっており、夜だというのに辺りがよく見えた。それを好機とばかりに、小町は真っ先に自分の防具が置かれている場所を目で確認する。見たところ、焦げた跡はない。鉢巻も無事のようだ。
「ありが――」
 今の敵は椿でなければ倒すのは難しかっただろう。お礼を言おうと小町が椿の方へ目を向けた。
 椿は構えていた杖を下げているところで、小町の目には彼女の背中にはっきりと肌色が映った。普通ならば、椿の黒い服だけがあるはずのそこは、鋭利な刃物で裂かれたかのように、綺麗な筋が入っている。
 彼女の腕が下がる。同時に、涼しい風が吹く。炎はまだ残っている。切れ目の入った椿の服はめくれ上がり、白いとは言いがたい肌の色を大きく見せつける。
「――え?」
 椿が自分の背中に違和感を覚え、声を出す。
 小町は目を見開き、彼女の背中を見た。
 肩から腰の辺りにかけて、小町にはわからない記号や文字が所狭しと彫りこまれている。それはまるで罪人の証のようにさえ見えた。
「見ないで……。見ないで! 見ないで!」
 沈黙があったのはほんの一瞬で、椿はすぐに小町と向きあい背中を隠した。同時に炎は跡形もなく消え去り、小町の目には椿の背中に描かれていたものは一切見えなくなっている。それでも背中を見られるのが恐ろしいのか、両手は背中に回され、綺麗に二つに切られた服の端を持っている。
「椿……」
 彼女の顔は真っ青で、瞳は不安定に揺れている。
「見ないで!」
 悲鳴のような叫び声を上げ、椿は走り去る。
 茂みの向こう側で、驚いたような大空の声が聞こえた。小町は急いでタオルで体を拭き、最低限の服を着て、防具は片手に掴んで後を追う。彼女の体は、もう走ることを何の苦にもしていなかった。

 misson 13